かなしみは通りすぎた

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

「恋人になりましょう」
「えっ!?」
 わたしは、椅子から飛び上がりそうな勢いですっとんきょうな声をあげた。
「それがもっとも自然だと思います」
 そう言って、沖矢くんはバーボンに左手を伸ばす。今日はフォアローゼズだ。わたしは沖矢くんの顔をまじまじと見た。見事なまでに優男ふうのきれいな顔立ちをしている。
「え? ええ? えー」
 わたしが言いあぐねていると、電子レンジが鳴った。電子レンジは食べ物の分子構造を破壊するから、なるべく使わないようにしている。でも、今は電子レンジがヒーローのように感じられた。沖矢くんから逃げるように立ち上がり、あたためた豆乳を取り出す。黒糖とシナモンパウダーを加え、魔女が釜をかき混ぜるみたいに神妙な面持ちでティースプーンを時計回りにゆっくりと動かす。
「取って食いはしません。そうびくびくしないでください」
「ひっ!」
 わたしは肩を跳ねさせた。眉をつり上げて、振り返る。
「気配を消して背後に立たないでよ! わたしはFBIでもなければ、肉体労働派でもないの。頭脳労働派なの」
「すみません、つい」
 沖矢くんがメガネのブリッジを一本の指で上げた。その動きで蛍光灯の光がメガネに反射する。わたしは一瞬目を細めた。
 PRISM――プリズム――とは、光学ガラスなどでできた透明な多面体。光を分散、屈折、全反射、複反射させるときに用いる。また、NSA――アメリカ国家安全保障局――が実施していた情報収集プログラムの名前である。これは、マイクロソフト、グーグル、フェイスブックなど、大手IT企業が提供するネットサービスのサーバーに直接アクセスして、ユーザーのデータを収集することができる。つまり、分析官がある電子メールアドレスにターゲットを絞れば、そのアドレスから送られたメールは、IPアドレス、本文、添付ファイルを含めすべてが盗み見られてしまうということだ。プライバシーなどあったものではない。
 本来ならば、FISA――外国情報監視法――の七〇二条に基づく通信データ収集プログラムは、国外の非アメリカ人を対象にするもので、アメリカ市民や国外にいるアメリカ人の通話や電子メールをターゲットにすることを許可していなかった。しかし、NSAは裁判所の令状なしで、日常的にアメリカ人の通信内容を収集していた。それは一時的な収集とされていたが、結局のところ、NSAの職員がその情報を今も持ち続けている。
 かくいうわたしもNSAの職員だった。ある日、先輩がPRISMを使っているところを見せてくれた。そのとき、たった一通のメールがわたしの胸にかすかな淡い虹をかけたのだった。それは恋でも愛でもなかったが、時間が経てば経つほど、色彩の濃さを鮮やかに増してきている。だから、わたしは今まで一度もそれを見失ったことがない。
 わたしがNSAで何をしていたかというと、ネットワークの基幹回線のハッキングだ。対象は基本的に巨大なインターネットルーターだった。そうすれば、コンピューターを一台ずつハッキングしなくても膨大な数のコンピューターの通信にアクセスできた。
 NSAは恐ろしい職場だった。気が狂った。わたしもPRISMで監視されているのではないか、実はハッキングされていて、データが筒抜けになっているかもしれないと疑心暗鬼になり、家族への連絡すらままならなかった。ゆっくりと確実にたまっていくストレスで、わたしは体調を崩した。しかし、NSAは、グリーンカードの取得に兄さんと同じように苦労し、やっとの思いで勝ち得た仕事だった。そして、当時は今と同じように平時でなかった。テロを止めるのは爆弾でなく頭脳であり、テロとの戦争の前線はイラクやアフガンでなく、コンピューターの前だと上司から言われていた。わたしがやらなければならない。そういう使命感があった。だから、迷いに迷って辞職すると決断した。
 とはいえ、NSAをやめてやっぱりよかったと思う。罪悪感からの解放は、わたしを想像以上に健康にした。身体も心も軽くなった。人は本当に安心したとき、何もかもがすきとおってしまいそうな感覚に陥るらしい。うつくしいひとときにゆったりと浸っていると、頭のてっぺんからつま先の三ミリ先の空気までほぐれて、まぶたな甘くふわっと重くなり、眠くなる。
 安眠とそれが叶う環境こそ至福と実感して、わたしは普通寄りの存在になるつもりだった。わたしがあのまま仕事を続けていれば、長男はFBIのエージェント、長女はNSAの職員、次男は七冠王の棋士、次女は女子高生探偵なんていう個性の強すぎるかたまりが生まれていた。兄弟の中にひとりくらい普通寄りの存在がいてもいいだろう。幸い、貯金はこの年であり得ないほどある。安いアパートに住んで節約すれば、しばらく静かに過ごせるはずだった。そ、れ、な、の、に!
「木馬荘は死んだはずの兄さんが引っ越してくるわ、火事で住めなくなるわ……。それから、わたしは新しい部屋が見つからず、ゲストハウスに住み着いて? しかも、なんだか危険な臭いのする手伝いをこんなふうに頼まれて? はあ、夢にも思ってなかった」
 わたしはすごすごとテーブルへ戻る。マグカップにフォアローゼズをいれると、花や果実のような独特の香りが鼻腔をくすぐった。琥珀色がクリーム色に溶けていくのを眺めて、目を閉じる。しかし、ほっと息をついたかと思えば隣の椅子が引かれる音がした。思わず目を剥く。ちょっと待って。なんで隣に座るの? さっき向かい合わせだったよね?
「心の距離が遠いように感じたので、物理的に近づいてみました」
「調子狂うなあ。もういいよ、兄さん」
 なんだかどうでもよくなって、わたしは言った。兄さんに口で勝てた試しはない。これからもそうなのだろう。ずっと前から分かっている。
「微力ながら、元NSAの頭脳を提供いたします」
 わたしはぺこりと頭を下げた。
「頼りにしている。……兄と妹の共同戦線に」
 よく知っている低めの声がした。顔を上げると、隈がひどくて目つきの悪い凶悪犯のような顔立ちが目に飛び込んできて、わたしは卒倒しそうになる。もはや何も言うまい。
「かんぱーい」
 わたしは気の抜けた声を出した。グラスがマグカップに当てられ、カチッと音が鳴る。マグカップは大きな赤いケシの花が咲き乱れている柄で、どこからどう見てもマリメッコのものだ。それを眺めて、わたしは訊く。
「このマグカップ、どうしたの?」
「買った」
「へえ」
 わたしは兄さんがマリメッコで買い物をする姿を想像して笑いそうなる。似合わない。フォアローゼズの味がほんのりとする豆乳を飲み、マグカップで顔を隠す。
「あー、結婚がまた遠退いちゃったな」
「……大丈夫だ。そのうちなんとかなる」
「あのね」
 わたしは半目で口を開く。
「毎日あなたは花に水をやりません。さて、その花は水をやる妄想だけで咲くでしょうか?」
「咲かないな」
「そう! だから、相手を見つける努力くらいしたいの。でも、沖矢くんと付き合うとそれもできない。つまり、そのうちなんとかなることはない!」
 むすっとして、わたしは言った。横目で盗み見た顔は、聞いているのかそうでないのかよく分からない感じだ。
「せめて癒しがほしい」
 木馬荘と一緒に燃えてしまったお気に入りのものを思い浮かべる。電子機器類、家具、食器、本、服……。
「でも節約しないといけないからなあ」
 わたしはこめかみを押さえた。
「それなら俺と一緒に住め」
「え、さすがにまずいでしょう。工藤さんに悪いよ。あ、真純と一緒にホテルで暮らそうかな」
 打ち上げ花火みたいに頭にアイデアが閃いて、目を輝かせる。うん、そうだ。この手があったんだ!
「それだと今よりも金がかかるだろう」
「でも、精神衛生上すこぶるいい!」
「ホー……」
 つまり、俺とでは精神衛生上すこぶるいいわけじゃないと? そう言いたげな、おもしろくなさそうな声色に少し申し訳なさを感じる一方、明るい気持ちが、オーブンでふっくらとしていくパンのように、胸で膨らんでいくのが心地いい。わたしはクスクスと笑った。そして、内緒話をするみたいに小さな声で話し始める。
「ずっと前、ママに叱られてふてくされた真純が、黙ってひとりで寝ようとしちゃったことがあってね。おやすみくらい言いなよって声をかけるつもりで寝顔をのぞいたら、真純が目を瞑ったまま私の手を取って、口もとに持っていったかと思うと」
 グラスを持っていない節くれだった右手を両手で持ち上げ、わたしの口もとに近づける。悪人のような目をちらっと見ると丸くなっていて、なんだか愉快に感じた。わたしはウィンクをばっちりときめ、声を弾ませる。
「ちゅってしたの!」
 ぱっと手を離して、にこにこと笑う。にこにこというよりもでれでれのほうが正しいかもしれないが、気にしない。
「あれ、すっごくかわいかったなあ。本当にかわくて、真純が大好きって気持ちでいっぱいになった。今も思い出すだけでそうなる」
 わたしは鼻歌を口ずさみながらスマートフォンを操作する。真純に連絡しよう。最近ハムサンドのおいしい喫茶店を見つけたから、そこへ連れていきたいな。でも、毛利探偵事務所の近くだから、もう知っているかもしれない。バウムクーヘンを買って会いに行こうかな。うーん、だめ。バウムクーヘンはわたしの好物だ。真純に喜んでほしいから、真純の好きなものにしよう。
「どうして妹ってあんなにかわいいんだろう」
「そうだな、
 わたしはやわらかく細められた目に気恥ずかしくなり、視線を落とした。
「兄さん。マグカップ、用意してくれてありがとう」
「バウムクーヘンもあるぞ」
 季節は、寡黙で圧倒的なやすらかさをもって移ろう。人がどれほどトラブルを抱え、どれほど右往左往していようと、そんなものは些事とばかりに。大昔からそうであったように。

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