赤い糸くず取ったげる

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

「やっほー」
 右手の甲を昴くんへ向けて、ぴったりとつけた人差し指と中指をまっすぐに立てる。そして、それをくるりとひっくり返した。人差し指、中指、薬指の先を親指の爪あたりに乗せ、小指を立てる。続けて、手の甲を見せたあと、手首を左に傾けることで手と腕を垂直にする。親指は昴くんに見えないように隠して、残りの指は伸ばした。その形を保ったまま、手を手前に引く。それから、手のひらを昴くんに向けながら手と腕を縦一直線にし、人差し指と中指をぴったりとつけて伸ばす。それ以外の指は折った。最後に、親指、中指、薬指の先を合わせて、きつねの顔と似た手をする。これを流れるような動きで行い、数秒間ですませたわたしに、昴くんはひとつ頷いた。了解と言う声が頭の中で響く。
 いつものように居間へ通してもらって、わたしは二つある紙袋のうち、大きいほうから目当てのものを取り出した。首が太くて短い丸形フラスコをひっくり返したような形をしているそれは、頭の部分が球体で、りんごくらいの大きさだ。
「早速だけれど、相談ってこれのことなの」
「なんですか、これ?」
 昴くんがわざとらしく首をかしげる。そんなふうに動きまで演技しなくてもいいのにと思いながら、わたしは口を開く。
「防犯カメラ。ほら、空き巣が心配だって言ったらアドバイスしてくれたじゃない。それで」
「買ったんですか?」
「うん。サンキュッパだから、思いきっちゃった」
 へへっと笑ってみせる。
「昴くん、理系でしょう? こういうの詳しいかと思って」
「まあ……。でも、僕よりも阿笠さんのほうが適任ではありませんか? それにわざわざ買わなくても、頼めば作ってくれそうなものですが」
「それはそうなんだけれど。あれでもプロじゃない? だから、便利屋みたいにお願いするのもどうかなあって思ったの」
 わたしは年の離れた従弟を思い浮かべて苦笑する。蝶ネクタイ型変声機、腕時計型麻酔銃、キック力増強シューズ、犯人追跡メガネ、伸縮サスペンダーなど、あの子はいろいろな発明品を無償で提供してもらっている。まだ高校生だから、働くことがどういうことか、ぴんときていないんだろう。それで、何かものを作るのにどれくらいのお金と時間がかかるか、想像できていないんだと思う。しかも緊急事態だ。しかたないといえば、しかたない。とはいえ、さすがに甘えすぎている気がするのも事実だ。わたしまで甘えるわけにはいかない。
「なるほど。しかし意外でした」
「何が?」
さん、この手の物に明るいわけではないんですね」
「あー、うん。警視庁の事務員って警察官みたいなものだと思われがちだけれど、実際は全然違うから。物騒なものを見慣れている割に分からないんだ」
 わたしが配属された交通執行課は、交通取締りの計画、統計、取締り用装備資器材の開発をはじめ、交通事件の送致手続き、暴走族の取締り、白バイ乗務員への訓練などを行う部署だ。仲のいい由美ちゃんや苗子ちゃんはパトカーを乗り回している。でも、わたしが担当していることといえば、課員の通勤手当、旅費、勤務管理などで、危険な仕事ではない。
 肩をすくめて、防犯カメラの取扱説明書を広げる。これはモーションセンサーを搭載していて、動体検知撮影が可能らしい。つまり、人が動くことでモニターが起動するということだ。スマートフォンにメールで通知もできると書いてある。首振り機能もある。広角レンズを採用しているから、室内の隅々までを監視できるそうだ。夜間になると赤外線ライトが自動的にオンになる、ナイトビジョンも搭載されている。真っ暗な部屋でも赤外線でちゃんと確認できるようだ。わたしは、昴くんとひとつずつ設定を決めていく。そして、昴くんがコーヒーをいれに席を立ったところで、気になる機能を見つけた。
「子守唄……?」
 思わず眉間にしわが寄る。泥棒を寝かしつけるんだろうか。いやいや、そんなばかな。そう思いつつボタンを押してみれば、なんとも見事な子守唄が流れた。驚いて固まっていると、昴くんが戻ってくる。
「昴くん、これ」
「子守唄ですね」
「やっぱり? あ、ありがとう」
 わたしはコーヒーを受け取る。取扱説明書を手にした昴くんは、なんだか愉快そうな顔をした。口もとが緩んでいる。
さん。これの商品名、確認しましたか?」
 おかしくてたまらないというような声で、昴くんは言った。
「ううん」
 わたしは首を横に振る。値段と、大きさと、できることをざっと見たくらいだ。
「厳密にいうと、これは防犯カメラではありません。お母さんが赤ちゃんを見守るためのカメラです」
「えっ」
「ほら」
 昴くんが指指した取扱説明書のところを見る。そこにはベビーモニターと書いてあった。顔が燃えるように熱くなる。すごく恥ずかしい。
「うわー……」
 やってしまった。
「でも、防犯カメラとして使って問題ない仕様ですよ」
「うん。あの、しばらくそっとしておいて」
 テーブルに突っ伏して、顔の熱が引くのを待つ。コーヒーがぬるくなるころにはなんとか立ち直り、また設定を決めていった。小さいほうの紙袋をちらりと見て、わたしは言う。
「頼れるプロだっていたんだよ」
「ホー……。どんな人ですか?」
「……一生どころか、三回くらい生まれ変わったって忘れられない男」
 昴くんは細めている目をさらに細める。
「男性ですか。ちなみに、今誰かとお付き合いはされていますか?」
「ううん。そういうのは、する気になれないの」
「どうしてですか?」
 わたしは俯く。この人は、ひどい人だ。本当は理由を知っているにも関わらず、わざわざ言わせようとしている。それを言葉にすることが、どんなに淋しい絶望であるか、身をもって知っているはずなのに。
「三年前、婚約したの。でも……爆弾が、みんな、吹き飛ばしちゃって、それからは」
 あの日のことはきっと忘れられない。忘れたくない。忘れてはいけない。
「そうでしたか。すみません」
 すみませんなんて、よく言えたものだ。わたしは口を開いて、唇を一文字にきゅっと結ぶ。気まずい空気が流れた。それを払拭したくて、コーヒーを一気に飲み干そうとする。
「げほっ、ごほっ」
 まずいと思ったときにはもう遅かった。コーヒーが気管に入ってしまった。コーヒーを押し出すように咳が出る。苦しさで眉間にしわが寄るのが分かった。昴くんから顔を背ける。ぎゅっと目を瞑れば、そそっかしいと呆れる顔が一瞬だけ浮かんだ。回想でくらい優しくしてくれたっていいと思う。肺だけでなく、心まで痛くなったからか、涙がにじむ。
「ごめ、げほっ」
 咳はなかなか収まらない。おかしい。少しむせるくらいだと思っていたのに、ちっとも止まらない。予想外の事態に、だんだん焦りが込み上げる。目の前がチカチカとして、紫やら黄やら赤やら緑やら、いろんな光の粒が散らばった。
「大丈夫ですか」
 向かい合って座っていた昴くんが立ち上がり、隣に腰かける。そして椅子をわたしに近づけた。
「ゆっくり、大きく咳をしましょう。苦しいものは全部出してしまえばいいんですよ」
 昴くんは安心させるような声で言い、大きな左手でわたしの背中をさする。苦しいもの。その言葉がやけに頭に響いた。
「遠慮せずに、しっかりとむせてください」
 言われた通りにすると、咳がたちまち小さく静かになっていった。深く息を吸うと肺はキリキリとする。しかし、穏やかな気持ちで空気を吐き出すことができた。ほっとして右斜め上を見る。思ったよりも近いところに、昴くんの顔があった。びっくりして離れようとする。ところがすぐ右に引き寄せられた。わたしの右半分が、昴くんの左半分とぴったりくっつく。
「えっと……」
 わけが分からず、口を開く。触れているところの温かさが気になって、視線が泳いだ。
「咳、止まりましたね。よかった」
 昴くんが小さいほうの紙袋を右手で指差す。どうやらこのまま話せということらしい。不自然にならないよう気をつけて、わたしは声を出す。
「うん、ごめん」
「気にしないでください。ああ、話の途中でしたね。なんでしたっけ?」
「忘れちゃった」
 わたしはブラウスの袖を触り、嘘をついた。罪悪感は生まれなかった。なぜなら、昴くんが話題をもとに戻すため、とぼけたふりをしたことに気づいているからだった。昴くんは感情の読めない顔で口を開く。
「忘れてしまうということは、その程度の話だったんでしょう」
「そうだね」
 過去は未来の舵を切る。人の心に刻まれた記憶は、大きなものから小さなものまで、人の心理と行動の中で生きていく。たとえば今みたいに。今日、ここへ来る前に行ったポアロで、わたしは安室さんから小ぶりの紙袋を渡された。そのとき、紅茶の種類を入れ換えるんですが、中途半端に余っている分なのでどうぞと言って微笑まれた。なんだか不自然な気がして工藤邸の前で中身を確認してみると、なんと盗聴器のおまけがついていた。安室さんは昴くんを赤井さんだと疑っていて、わたしが昴くんのところへ行くとこぼしたから、行動を起こしたんだろう。しかし過去が邪魔をした。わたしの隣に陣平がいて、安室さんが降谷くんだったとき、ちょっとしたことがきっかけで、わたしは降谷くんから指文字を教えてもらっている。だから、昴くんへ盗聴器の存在を知らせるのに、声がいらなかった。皮肉にも、降谷くんのささいな選択が安室さんを欺くことになってしまったのだ。
さん、昼のカレーがたくさん残ってるんですが」
 昴くんが、少しずつ、そうっと変装を解いてく。昴くんから赤井さんへ変わっていく顔に、わたしはぎょっとした。それでもなんとか明るい声色で茶番を続ける。
「よしっ、食べるの手伝ってあげる」
 とても優しい手つきで、赤井さんに頭を撫でられる。それが心地よくて混乱した。大きな左手がわたしの右手に重なる。そして指を絡められた。あたかも、赤い糸くずを消し去るように。わたしの中の陣平が殺されそうで怖くなる。わたしは、いつまでも、身勝手なモジャモジャ頭のグラサン男に傷つけられていたいのに、赤井さんは、叶えさせてくれなさそうだ。赤井さんは、決して解けない知恵の輪みたいに思える。こんなに近くで見つめても、何を考えているのか全然分からない。盗聴器の向こうで、耳をすませているであろう存在の気持ちのほうが、まだ想像できる。頭で警鐘が鳴り響く。赤井さんは、甘やかな危険だ。

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