わたしのものだけれど、わたしのものじゃない部屋をあさる。この二年間、騙されてきただなんてまだ信じられない。信じたくない。昨日まではあんなに気持ちよくくるまっていた布団も、きちんと水やりをしていた勿忘草も、等しく薄っぺらい感じがする。
ベッド脇のキャビネットの、三番目の引き出しを開けた。水色のジュエリーケースが顔を出す。これは、持っていこう。蓋を開けるとシルバーのネックレスが輝いている。ペンダントトップは小ぶりの土星で立体的だ。土星の頭には小さな十字架がついている。これはそこそこ有名なブランドのものらしい。らしい、というのは、わたしの趣味じゃなくてアウルの趣味だからだ。わたし、アウル、スティング、ステラの四人でオーブに行ったとき、アウルにもらった。アウルがアクセサリーにお金を使うのが意外だったし、しかもそれが女性ものときて、わたしにくれるものだから本当に驚いた。そして心の底から嬉しかった。
ジュエリーケースが入っていた引き出しの中には、日記もあった。赤い装丁で分厚いこれは、アウル、スティング、ステラ、いわゆるエクステンデット、もしくは生体CPUと呼ばれる彼らが忘れてしまうことを記憶するためにわたしが買った。そして毎日ひっそりと書き続けたのだった。
生体CPUは、モビルスーツの生きたパーツとして扱われている。いわば人間兵器のようなものだ。彼らは毎日「ゆりかご」による最適化を施される。わたしはパイロットだから最適化で何をしているのかははっきりと分からないけれど、記憶を一部いじられていることには気づいている。三人と話が噛み合わないときが、たまにあるのだ。
この日記はもういらない。半分以上残っている白いページに新しく文字が書かれることはないのだ。中を開けば思い出が溢れてきて、どうにも動けなくなりそうだから、乱暴にもとの場所に戻す。
それから他の引き出しを開けてみたり、衣装ケースの中を探してみたりして、持っていきたいものの少なさに驚いた。手に持っているのはジュエリーケースと四人で撮った写真だけだ。ジュエリーケースを開けて、ネックレスを着ける。貰ってから初めてのことだ。わたしにはこれだけでいい。これさえあれば、生きていける。目の奥が熱くなる。大丈夫。天井を仰いで深呼吸をした。長く細く息を吐き、折れないように気をつけながら写真を持って部屋を出る。
「」
なんでこんなときに。
ドアの前にはアウルが立っていた。両手を頭の後ろで組んで、目を丸くしている。
「どっか行くの?」
「うん」
わたしは目を反らして応え、廊下を歩く。別れは一歩ずつ確実に近づいてきている。
「デッキ?」
「ううん」
「食堂?」
「違う」
また目の奥が熱くなった。わたしはこれから、遠いところへ行く。
「分かった、ネオんとこだろ!」
声色から、アウルが無邪気に笑っていることが分かった。眩しくてしかたなくて、やっぱり顔を見られない。そんなわたしの様子に、アウルは違和感を覚えたらしい。
「どうしたんだよ」
と言って、両肩に手を置く。
わたしは叫びだしたくなった。本当はアウルのそばにいたい! 戦争なんてしたくない! モビルスーツなんてすべて爆発してしまえばいい!
「どうもしないよ」
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
「なら僕の目を見て言えよ!」
ダンッと音を立てて、アウルが壁に拳を叩きつける。
「ごめん」
ほんの一瞬、アウルも連れて行こうかと思った。でもすぐその考えは消える。アウルは生体CPUだ。「ゆりかご」がなければ生きていけない。荒れ狂う感情の波に耐えられず、涙を流してしまう。
「ごめん、アウル。ごめんね、ごめん」
「ごめんってなんだよ……。なんで泣いてんの?」
「ごめん」
子どもみたいに泣きじゃくりながらただ謝るわたしを見て、アウルは眉をハの字にしたようだった。涙で視界が歪んではっきりとは見えないけれど、こういう顔をさせたかったわけじゃない。それに、みっともない泣き顔でさよならをするつもりもなかった。今晩アウルは「ゆりかご」でわたしの記憶を消されるだろう。一人の女パイロットのことなど、きれいさっぱり、あとかたもなく忘れてしまう。ここはそういうところだ。分かっている。でも、たとえ忘れてしまうとしても、好きな人の記憶でくらい、一番きれいなわたしでいたかった。
「ほら、これ見て。着けてみたの。似合う?」
泣き笑いで首をかしげる。今のわたしにできる、精一杯の強がりだ。
「趣味じゃないって言ってたじゃん。なんで突然――」
「似合ってるかどうかを訊いてるの」
「……似合ってる」
「ありがとう」
このネックレスを着けなかったのは、好みじゃなかったからだけじゃない。これを着けたら後戻りができなくなると、どこかで気づいていたのだ。
「今日なんかおかしいぜ。ネックレスもそうだけど、写真なんか持って」
「うん、今から出ていくの」
「どこに?」
わたしは黙っている。
「僕には言えないとこ? 任務?」
前者は当たり、後者ははずれだ。
「でも帰ってくるんだろ。そしたらバスケやろうぜ。他の奴らがいつもやってんじゃん」
きっとわたしは二度と帰ってこない。秘密は作っても嘘はつきたくない。だから約束はできない。
「には分かんないと思うけどさあ、ここって楽しいんだよなあ。いっぱい敵は殺れるしさ、だって、いるし、ラボん中よりもずっといいよ」
「……そう」
「なあ、どこ行くんだよ。母さんみたいにいなくなるんじゃ――」
母。ブロックワードを口にしたアウルはみるみる顔を真っ青にする。
「ごめんなさい。さよなら、アウル」
そんな彼に背を向けて、わたしは走り出す。後ろからアウルの喚く声が聞こえる。
「か、あさん。かあさん! どこ、やだ、行かないで、置いてかないで、母さん、母さん! 行かないで!」
悲痛な叫びはわたしの心にぐさぐさと突き刺さる。ごめん。ごめんね。涙を流しながら廊下を駆け抜け、モビルスーツのコックピットへ。モビルスーツ・モビルアーマー管制の制止の声は無視する。
カタパルト接続、システムオールグリーン。発進、どうぞ!
聞き慣れた友だちの声が頭の中に響く。操縦幹をぐっと握って、無理やりエグザスを発進させた。隊長機でもないのに立派にカラーリングされている愛機は、なんの因果かスカイグラスパーと似た色をしている。
二年前、わたしはモビルアーマーで出撃していた。当時、軍人でもなんでもない学生だったけれど、戦争に巻き込まれて、数人の友だちと戦艦に乗っていたのだ。その戦艦にはパイロットが一人しかいなくて、友だちの一人も兵器を駆らざるを得なかった。彼はコーディネイターで、わたしもコーディネイターだった。だから、彼にできるならわたしにもできると主張した。でも、最初は女だからと聞き入れてもらえなかった。そのうち、別の友だちがスカイグラスパーで出撃することになった。そして、それに乗った友だちは爆発と一緒に海へ消えた。悲しかったし、悔しかったし、やるせなかった。怒りがふつふつと湧いてきた。それからパイロットにしてもらえるよう艦長に頼めば、ちゃんと聞き入れられた。わたしはもう誰も死なせたくなかったし、艦長もそうだったのだろう。それに戦場の空気がわたしたちをおかしくしていた。
三年前、わたしは工業カレッジの学生だった。成績はすこぶる優秀だった。へリオポリスで平和に過ごしていて、戦争はどこか遠いところの話だと考えていた。わたしが住んでいたへリオポリスは中立国であるオーブのコロニーだったからだ。コーディネイターだからっていじめられたり嫌がらせをされたりすることはなかったし、ナチュラルだからってそういうことをすることもなかった。
四年前は、誕生日を家で祝っていた。父と母と妹と丸いケーキを囲んで、歌を歌って、ろうそくを吹き消していた。五年前も、六年前も、七年前も。
それがどういうわけか、こんなところにいる。多分、第二次ヤキン・ドゥーエのあとに宇宙で漂流していたところを地球連合軍に拾われたんだと思う。生体CPUの記憶を操作できるくらいだ。わたしの記憶をいじっていたって不思議じゃない。
わたしたちは、戦争をしている。
繋ぎ慣れた回線を開く。
「アークエンジェル、聞こえますか? ・です。繰り返します。アークエンジェル、聞こえますか――」
嗚咽混じりに呼びかける。
「ねえ、助けてよっ……」
アウルに会わなくても、どこかにいるんだからそれでいい。わたしはそれで安心できるはずだ。海に、空に、わたしに、アウルの声が溶けている。会わなくったって、アウルはどこかで息をしている。死なないで、「ゆりかご」で最適化されて、眠り、起きて、いろいろなものを忘れて、喜んだり怒ったりする。アウルはファントムペインの中で一番表情が豊かだ。
きっとどこかでバスケットボールをしたり、アビスで暴れまわったり、座ったり立ったりしている。笑っているかもしれないし、泣いているかもしれない。もちろん前者のほうがいいけれど、そんなことよりも、アウルがどこかにいて、心臓を鳴らしていることが大切だ。わたしがいなくても、アウルは生きる。
でも、やっぱりだめだなあ。
アウルがわたしを知らないことはひとつの暴力になる。わたしを殴る。わたしがどこに行こうとしているのか、どこから来たのかを知りたいと思わないことも暴力になって、わたしを蹴る。興味がない。名前も姿かたちも分からないこと。わたしが生きていても、死んでいても、アウルは知りようがない。わたしが死んでもアウルが気づかないこと。泣いてくれないこと。全部わたしがそうさせるのだけれど、やっぱり淋しいと思ってしまう。胸が痛くてしかたない。ああ、どうしよう。わがままだ。もう一度名前を呼んでほしいなんて願うべきじゃない。
「アークエンジェル――」
愛し方が分からない世界で、わたしは未来を探している。