いつかのはなし

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 小春日和の秋、やわらかな日の差し込む作法室に二人の影が伸びていた。影は淡く、輪郭がぼんやりとしている。

せんぱーい」

 頭の高いところで結われた、ゆるく波打つ長い髪の影法師が揺れる。

「うん? どうしたの」
「呼んでみただけでーす」

 なにそれ、と応えて、もうひとつの影の持ち主が笑い声を立てる。
 それはとても平和な、守られた暮らしにある風景のひとつだった。

● ▲ ■

 フリーの忍者となった仙蔵は、ほかの忍者二人と三人一組である城を調査していた。深夜も深夜、忍者のゴールデンタイムのことである。その城は森で囲まれた沼に浮かぶ島に建っていて、よほど優秀な忍者でもいるのか、いたるところに罠が張り巡らされており侵入が難しかった。三人は手を焼き、森から沼へなかなか進めなかった。
 罠を掻い潜るたび仙蔵は既視感を覚え、奇妙な気持ちになっていた。記憶の上澄みにある後輩の笑顔がちらつく。あれは元気にしているだろうか。あれも罠が得意だった。そう思って気を抜いた瞬間、容赦なく手裏剣が襲いかかる。仙蔵は心の中で舌打ちをした。今回の仕事はやっかいだ。すかさず手裏剣を避け、近くの木へ飛び移る。やっと城の影が見えてきた頃だったというのに埒が明かない。
 敵の矢羽根が飛び交ったかと思うと、刀での戦闘に切り替わった。
 仙蔵はまずいなと思う。ほかの二人は問題ないだろうが、自分は線が細いから不利だ。今切り結んでいる相手はくノ一のようだったが、地の利は当然向こうにあるし、人数も手裏剣の数からして相手のほうが多そうだった。戦闘中に罠へ誘導されてしまう恐れもあり、このまま戦うのは厳しい。
 仙蔵は二人に撤退の矢羽根を飛ばした。彼らは苦戦しながらも城とは反対側を目指して消えていく。しかし仙蔵は後退できなかった。くノ一は仙蔵がどう動くか知っているみたいに攻めてきた。黒い頭巾で覆われた額に冷や汗がにじむ頃、これまで一番長く使っていた矢羽根が仙蔵の耳に届いた。

――立花先輩?

 仙蔵は目を見張り、動きを鈍らせた。
 そのとき、斜め後ろできらりと白刃が煌く。
 しまったと思い、かわせるかかわせないかの瀬戸際で身をよじった。黒い影がひらめく。忍刀が肉に刺さるいやな音が耳についた。しかし仙蔵は無傷だった。仙蔵の前に踊り出た敵のくノ一が、その身に刃を受け止めていたのだ。

――立花先輩でしょう。です。

 仙蔵はくノ一を抱え、とっさに走った。冷静さはとうに失われていた。罠がどこにあるかはくノ一が教えてくれた。そうして命からがら逃げきったとき、くノ一は死の淵に立っている状態だった。仙蔵がくノ一の頭巾を取り払うと、見知った顔が現れる。



 絶望にも似た気持ちで、仙蔵はくノ一の名前を呼んだ。そして自分の頭巾を取った。

「おや、まあ、やっぱり、立花先輩だった」

 そう言っては笑った。口元に赤黒い血がべっとりと付いている。

「なんで庇った」
「かばったつもりは、ありません。結果としてそうなっただけで。……ねえ、喜八郎は、元気ですか?」
「こんなときまで喜八郎か。あいつは今も穴ばかり掘っている。お前を落としたいそうだ」

 仙蔵は喜八郎の消息を知らなかったが、の手を強く握って応えた。

「おやまあ、うれしい。あのこ、やさしいから。いきていてよかった。わたしのこと、忘れていなくて」
「もう喋るな。傷が開く」
「いいえ、どのみち手遅れです」

 は自分の罠を掻い潜ってくる三人の忍者を見て、相当の手練れがいると睨んでいた。いざ忍刀で戦ってみると、かつて四年間、毎週、顔を合わせていた先輩とよく似た動きをした。記憶を手繰り寄せながら相手がどう動くか予想して斬り込めば、想像通りの戦い方をしたものだから驚いた。そしてこれは自分の知っている先輩だと確信した。だから矢羽根を飛ばした。案の定、仙蔵は動揺して命の危機に瀕した。

「お前なら私を殺すこともできただろう」
「ええ、せんえつながら。でも、そんなことをすれば、あのこが泣きます。……それにわたしも。立花先輩、わたし、これでよかったと思っているから、いいんですよ 」

 は仙蔵の左胸に手を当てる。

「自分の意思じゃなく生まれてきたんだから、自分の意思じゃなく死んでゆくのが正しいと思います。首尾一貫しています」

 死に際だというのにははっきりと言い切った。仙蔵の前に飛び出たのはほぼ反射で、実のところ何も考えていなかったのだ。

「……また…………来世、まで……ごきげん……よう……」

 は祈るように目を閉じた。
 月の光がの顔を神々しく照らし、闇の中から白く浮かび上がらせている。

● ▲ ■

 ある山奥に忍術学園という、忍者とくノ一の学校があった。忍者やくノ一を志す男子は忍者のたまご、忍たま、女子はくノ一のたまご、くのたまと呼ばれ、そこで十から十五までの六年間忍術を学ぶのだった。生まれ育ちに関係なく入学できたが、入学金、授業料、食堂の食券代などは自己負担だった。また学年が上がるにつれて脱落者が出たり、四年生から五年生への進級にかけて行儀見習いの子どもは半強制的に去らなければならなかったり厳しい面もあった。
 敷地は非常に広く、忍術を身に着けるための設備、備品が一通りそろっていた。学園の裏には裏山、裏々山、裏々々山……など多くの山が連なっており、実習――授業は男女別に行われるが、学内外のイベントや実習においてはそうとも限らなかった――や委員会活動の場所として使われることも多かった。
 委員会は保健、用具、図書、体育、会計、作法、火薬、生物、学級委員長の九つがあり、忍たまはいずれかの委員会に所属する決まりだった。くのたまは原則四人班での週番制で、学級委員長を除く委員会の仕事をひとりで二つ担っていた。

 はその年、五年生になったくのたまだった。二年生のときからずっと週番に作法委員会の仕事を選んでいた。もうひとつはなんでもよかったが、作法委員会だけは同級生に譲れなかった。なぜなら作法委員会にのお気に入り、綾部喜八郎がいたからである。
 喜八郎はのひとつ下の学年の忍たまだった。趣味と特技は穴掘りで、掘った塹壕や落とし穴、鋤や鍬などの道具に名前を付ける変わった一面をもっていた。例えば、落とし穴にはトシちゃん、愛用の踏鋤には踏子ちゃん、手鋤にはテッコちゃんといった具合である。喜八郎の作った罠――蛸壺がたいてい小さいことから、ひとり用の小さな塹壕は蛸壺と呼ばれた――がプロの忍者にも通用する出来栄えだったため、喜八郎は天才トラパーと呼ばれていたし、学園内が競合区域であることを理由にあちらこちらに穴を掘っていたから穴掘り小僧とも呼ばれていた。

 は週番でもそうでなくてもしょっちゅう作法室を訪れていて、この日もほしいもを作るため、部屋の入り口近くでさつまいもを天日干ししているところだった。喜八郎は、くりくりとした大きな目でそれを見ていた。
 仙蔵は授業を終え、天井裏――普段は使わないが、教室から作法室までの一番の近道だった――を通って作法室へ来ていた。音もなく天井板をはずすと畳に寝転がっている喜八郎が見えた。視線をずらせばがさつまいもを並べているのが見えて、またかと頭を抱える。

「ねー、先輩」
「なに、また呼んでみただけ?」

 は呆れた声で訊いた。

「先輩はお嫁にいかないんですか」

 仙蔵の動きが止まった。
 は喜八郎の問いに息をのみそうになったが、何事もなかったかのように微笑んでごまかした。

「さあ、どうかしらね。わたしは城仕え希望だから」
「ふうん」
「一度お城へ入ったらもう外に出られないと思うわ」
「そう」

 喜八郎は相変わらず無表情だったが、の返事を聞いて内心肩を落としていた。喜八郎も四年生になり本格的な実習を受け始め、忍者やくノ一の世界の過酷さをひしひしと感じていた。そしてこの先輩にそんなところは似合わないと考えていた。
 は美しかった。生き方、考え方、さつまいもを並べる手つきすら一分の隙もなく完成されているみたいだった。何より笑顔がよかった。白いするりとした肌は日の光がよく似合い、青空の下では不思議とぽうっと発光しているふうに見えた。つやつやとした黒髪もそうで、日中のは眩しいくらいだった。夜でもその美しさは損なわれないのだが、それは月の光があってこそのように感じられた。は光と生きるべくして生まれてきたのだと、喜八郎は常々思っていた。

先輩はドジだからすぐ死んじゃいますよ」

 そのあとに続けたい、だからくノ一なんてやめてくださいという本音を隠して喜八郎は言った。

「おやまあ。失礼な後輩ね」
「本当のことです」
「あらそう。じゃあそんなドジをいつまで経ってもお得意の罠にはめられない喜八郎も早死にしてしまうわね」

 はさつまいもから目を離さずにいたらずらっぽく笑った。
 喜八郎は黙り込んだ。の言う通り、が自分の罠にかかったことは今まで一度たりともなかった。

「……先輩なんて一生作法室でほしいもを干していればいいんだ」
「あはは、いやよ」
「おばあさんになって、しわくちゃの手でさつまいもを並べるんですよ。それでつまみ食いした一年生に腹を立てて、追いかけようとしたらぎっくり腰になるんです」
「それは遠慮したいわね」

 はおかしそうに笑った。
 仙蔵は天井板をそっともとに戻して外へ回り、まるで今来たかのように振る舞った。

!」
「なんですか? 立花先輩」

 は顔を上げた。

「なんですか? じゃない! いつも作法室にほしいもを干すなと言っているだろうが!」
「でも立花先輩も召し上がるでしょう?」

 は首をかしげ、仙蔵の口にさつまいものスライスを押し込んだ。

「むっ……」

 仙蔵は口をもごもごさせる。
 は立ち上がり、部屋の中を振り返って見た。

「喜八郎」
「はい?」
「呼んでみただけー」

 そう言って、にっこりというテロップが出せそうな笑いを浮かべる。
 喜八郎は、やり返したつもりですか、と応える。
 は天井をちらりと仰いで口を開く。

「うるさい先輩も来たからもうおいとまするわ。またね」
「えー、このほしいもどうするんですか?」
「取りに来るから置いておいて。三枚までなら食べていいわよ」
「どうせ戻ってくるならずっといればいいのに」
「おやまあ。嬉しいことを言ってくれるじゃないの」

 はころころと鈴の音を転がすような声で笑った。

「運よく五十まで生きられるとして、きっと今が一番わたしのきれいなときよ。そんな時期にこうして穏やかに暮らせることはとてもすてきなの。大丈夫。わたしは幸せ。お前はやさしいね」

 仙蔵はが、お嫁にいかなくたってわたしは幸せと言っているように聞こえて胸が痛んだ。この時代、女の幸せは結婚だと思われていた。
 は作法室に背を向け、ひらひらと手を振る。

「喜八郎、ありがとう」

 喜八郎は目を見張り立ち上がった。の姿が小さくなっていくのを、涙をたたえた目でじっと見つめる。あの先輩は、やはりくノ一になって死んでいくのだ。そう思うと悔しかったし、それを止められない自分もやるせなかった。喜八郎は踏鋤を掴むと、さつまいもを三枚取って廊下から地面へ降りた。

「どこへ行く」
「ちょっと蛸壺を掘りに」

 今はとにかく穴を掘りたかった。掘って掘って、どこへぶつければいいのか分からない気持ちを昇華させたかった。それにが自分の罠にはまれば、くノ一になるのをやめるかもしれないという期待があった。
 仙蔵はそれを分かっているみたいに口を開く。

「お前に罠作りを教えたのはあれだろう」

 言外に、喜八郎がを捕まえるのは無理だと伝えていた。

「そうですね」

 喜八郎は頷いた。

「でも、あの人の手は人を殺めるよりも暢気にほしいもでも作っているほうがいいと思うんです。私にはあと一年と少しあるんだから必ず落としてみせますよ」

 そう飄々と言い放って、喜八郎は歩いていく。
 仙蔵は襖にもたれ、さつまいもを一枚つまんだ。うまい。完全に乾燥させればもっとうまくなるだろう。ふと顔を上げる。空は雲ひとつなく、どこまでも青かった。

「……を出し抜くのには骨が折れるぞ。あれは優秀だ。誰かを庇ったりでもしない限り、滅多なことでは死なないだろう」

 何せ、学園一優秀な生徒といわれる仙蔵が天井裏に潜んでいたことを見抜ける後輩なのだから。

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