安全・高品質・低価格な薬を作ることが私の夢です。薬は人が口にしたり体に取り込んだりするもののため、画期的な新薬候補が見つかったとしても、安全性が保証されなければ使ってもらうことはできません。また、毎日飲まなければいけない場合や発展途上国での活用などを考えた上、価格は低ければ低いほど好ましいと思っています。
印象深い授業は医療安全性学です。これは医薬品開発に必要な安全性試験の基礎を知り、実際にどのような試験法があるかを勉強するものです。
放課後や休日は他大学の演劇サークルで活動し、楽しんでいます。
薬学部 薬学科 一年 さん
「オレ実は京大狙いだったんだけどさあ、センターで失敗したんだよなあ」
「お前も? 俺も俺も」
「なんだお前もか~」
屋台の中でラーメンが出来るのを待っていたらそんな会話が聞こえた。
京都の鴨川は、右から流れる高野川と左から流れる賀茂川がY字に合流してできている。合流地点の三角州は鴨川デルタと呼ばれ、近くの大学(たとえば京大とか同志社とか)の学生が新歓コンパで使ったり、近所に住んでいる子どもがトランペットの練習をしていたりする。
鴨川デルタにかかる橋の近くに現れる屋台ラーメン・食堂(屋台なのになぜか食堂という名前なのだ)は絶品で、学生に人気だ。割烹着姿のふっくらとしたおばちゃんが店主をしていて、いつもニコニコ笑って迎えてくれる。でもお残しにはうるさくて――。
「お残しは許しまへんでえ!」
ドンッと音を立ててラーメンが簡易机の上に置かれた。スープが波を立てる。おばちゃんの目は鬼みたいにつり上がり、並々ならぬ気迫が全身からあふれでている。
「はあい」
わたしは返事をした。食堂に来るようになって二年目だけれど、一度も残したことはない。それどころかここから五分歩いたところにある司津屋でたまご丼を食べた上、ラーメンを完食した日すらある。わたしは大食いじゃなくて細いわりによく食べるというくらいだから、お腹がいっぱいになって少し苦しかった。でも食堂のラーメンはおいしいし、いつでも食べられるわけじゃないし、ついつい足が屋台に向いてしまったのだ。食堂は雨の日とか材料の在庫がなくなったとき開かない。
ふうふうと息を吹きかけるとにんにくの香りが鼻腔をくすぐった。たっぷりと乗せられたもやしが嬉しい。温かいスープを口にすれば笑顔がこぼれた。これこれ。味噌でもしょうゆでも塩でもとんこつでもない、食堂のおばちゃんの味だ。割り箸をパキンと割って麺に差し込む。
「ちゃん、この前の劇もよかったわよ」
おばちゃんが言った。夜の食堂で女子大生がひとりラーメンをすするのってどうなんだろう?淋しくないかな?と思ったこともあるけれど、おばちゃんが一緒に喋ってくれるから孤独な感じはあんまりしない。
「若い子は小袖だと動きにくいんじゃないかって思ってたけど、ちっともそんなことなくて驚いちゃった」
わたしは目をぱちりとする。
「そういえば他の子たちよりも困りませんでした。こうすればいいんじゃないかな~って思った通りにしたら、けっこう大丈夫だったんです。体に染み付いてたっていうのかなあ。忘れてたものを思い出してる感じがしたんですよね。そんなはずないのに」
もぐもぐ口を動かしながら首をかしげると、目を見開いたおばちゃんがちらりと見えた。
「おばちゃん?」
おばちゃんはハッとして笑顔をつくる。そして眉をハの字にしながら口を開いた。
「ごめんね、なんでもないのよ」
「そうですか? ………あの、おばちゃんの探しものはまだ見つからないんですか?」
おばちゃんはもうずっと長い間探しものをしているらしい。探しものとしか教えてもらっていないから具体的に何を探しているか分からないのだけれど、とても大切なものなんだろうなあと思っている。
「うん、なかなかねえ。難しいのよ」
「早く見付かるといいですね」
「ありがとう」
わたしよりも先に来ていた男子大学生が席を立つ。
「ごちそうさまでしたー」
「はい、ありがとうね」
おばちゃんは簡易机の上に置いてある二人分の空のどんぶりを片付ける。わたしはラーメンをまた口へ運ぶ。ふうふうと息を吹きかけてツルツルした麺をずずっとすすれば、なんともいえない幸せな気持ちになった。お腹の底から元気が湧いてくる。そんな感じ。
食堂にはすぐ新しいお客さんがやって来る。くるくるした天然パーマの男の子が安っぽいビニールのカーテンから顔を覗かせた。丸い大きな目が印象的だ。肌なんてつやつやしている上に白くて、わたしよりもきれいかもしれない。
おばちゃんは男の子を見て、驚いているようだった。唇が小刻みに震えている。そういえばわたしと初めて会ったときもこんなふうだった。幽霊でも見たような顔をしてしばらく動かず、わたしが声をかけるとニッコリ笑って食堂に迎え入れてくれた。
「いらっしゃい。好きなところに座って」
おばちゃんは笑顔で言った。わたしが男の子に視線を移すと、驚くことに男の子もさっきのおばちゃんと同じような表情をしている。わたしと目が合うともっと目を大きくした。そして我にかえったような素振りをし、無表情ですぐ隣に座った。
……え?
食堂は狭い。でも六人くらいならなんとか入れる広さの小屋だ。それなのに男の子は離れたところに座らなかった。
どうして?
「この人と同じものをください」
食堂のラーメンはにんにくを入れるかいれないか、並か大かしかないのに男の子は言った。おばちゃんは何か懐かしいものでも見たように目を細めて頷く。
「ここにはよく来るんですか」
男の子の声が静かに響く。
「え、あ、はい」
「ふうん」
男の子はそれきり黙ってしまう。気まずくなって、わたしは残り少なくなったラーメンをすすった。おばちゃんはわたしたちに背を向け、男の子の分のラーメンを用意する。もくもくと立ち上る湯気をじっと見ながら、男の子が口を開いた。
「先輩」
わたしははっとする。初対面なのに名前を呼ばれた。男の子の瞳は黒々としていて何を考えているのか読み取れない。
「なんで名前を知っているんですか?」
恐る恐る尋ねる。目を伏せて、男の子は少し淋しそうな顔をした。
「……大学案内に載っていたから」
「ああ、そっか」
一年生の頃、わたしは大学案内の学科ページのモデル学生にならないかと声をかけられた。びっくりしたけれど、なかなかできない経験だと思ったから喜んで引き受けた。今年の大学案内には、わたしの立ち姿の写真と時間割と学生生活へのコメントが載っている。写真を撮ってもらったとき、なんだかどきどきしたし恥ずかしかった。それから少し得意気だった。わたしは他の学生よりも秀でていると勘違いして高慢ちきになっていたともいえる。実際、モデル学生に選ばれたのは教授からの推薦があったからだった。
でも、わたしは努力しなければ特別になれない凡人だ。それは小さな頃から悟っている。
だからこそ舞台の上は夢のような場所だった。これといってなんの取り柄のない普通のわたしが、お姫さまにだって飛行機乗りにだって男にだってなれる。そして、いろんな人からすごいねと誉めてもらうことができる。自分を殺して他の人の仮面をかぶることは、わたしに与えられた天職なんじゃないかと思ってしまうくらいだ。わたしはわたしを生きるよりも、他の人の人生を生きるほうがずっと楽かもしれない。影武者とか身代わりとか合ってるんじゃないかなあと思う。
「あれ、でも」
わたしは、はたと気付く。わたしは女子大の学生だ。この男の子は女子大の資料をわざわざ請求したんだろうか。怪訝に思い、男の子を伺う。飄々とした表情は崩れず、視線はおばちゃんの背中に向いていた。おばちゃんは湯切りをしている。トンットンッという音が静かに響いた。
「生まれ変わりって信じますか」
男の子は言った。脈絡のない言葉に不信感がますます募る。わたしが答えあぐねていると、一杯のラーメンが男の子に差し出された。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げて、男の子はおばちゃんを見つめた。まるで何かを待っているみたいに。おばちゃんははっとしたように目を見開き、涙声で厳しく言った。
「お残しは許しまへんでえ!」
「分かってまーす」
男の子は手を合わせた。
「いただきます」
ずるずると音をたてて、男の子がラーメンを食べる。わたしも最後のひとくちを飲み込んだ。いつもはスープまできれいに平らげるのだけれど、もうすっかり冷えてしまっている。心の中でごめんなさいと謝って、おばちゃんへ声をかけた。
「ごちそうさまでした」
ラーメンを食べ始めたばかりの男の子をちらりと盗み見て、そっと立ち上がる。財布からきっちり六〇〇円を取り出し、おばちゃんに渡す。おばちゃんはふかふかとした手でそれを受け取った。
「また、来てね」
「はい」
「忘れ物はない?」
「大丈夫です」
わたしは周りを軽く見る。スマホがあるか確認するため、ポケットに手を突っ込んだ。カサリと小さな音がする。黄金糖だ。金色に透き通ったそれはまるで宝石みたいで、口にするのが楽しい。これを食べるとき、気分はいつもクレオパトラだ。真珠をワインビネガーに溶かして飲み干しているような贅沢を、わたしはひっそりと味わっている。随分と安上がりだけれど。
「あの、よかったらどうぞ」
黄金糖を二粒取り出して、男の子に差し出した。なんとなくそうしたい気分だった。女子大に通うわたしの名前を大学案内を通して知ったらしい、少し怪しい男の子に警戒心を抱いているのは確かだ。でも、よく分からないけれど、このまま別れてしまうのが惜しかった。男の子は大きな目をこれでもかというくらい見開く。そして、ぽつりと呟いた。
「おやまあ」
顔をくしゃりとさせて、男の子がわたしを見上げる。丸くて大きいきれいな目から、きらりと光る一粒がこぼれ落ちた。
「こういうところは、変わっていないんですね」