サブテキスト

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

「タイムなんて測らなくていい」
 彼は言った。言うつもりのないことだったのに、思わず口にしてしまったみたいな声で。それは約二年間彼と同じ教室で過ごして、わたしがはじめて聞く音だった。不思議に思って、彼の顔をまじまじと見た。彼はばつの悪そうな表情でぶっきらぼうに続けた。
「ただでさえは不器用なのに、速さなんか求めたらますますひどくなる」
「あんたねえ」
 むっとした顔をして、わたしはテープを包帯に留めた。でも、それはカムフラージュだった。わたしは、首を縦に振らなかった彼にほっとしていた。ストップウォッチを使って、一緒にいる時間を短くしてしまうのは本意でなかった。

 憎まれ口が恋しいなんて、呆れたものだと思う。わたしは心の中でこっそりとため息をついた。それをごまかすようにミルクティーを飲もうとして、やめる。
「相変わらず猫舌なんだな」
 ポアロのソファー席で向かい合って座っている真純ちゃんが快活に笑った。真純ちゃんはホットコーヒーをおいしそうに飲み、訊く。
「まだだめなのか?」
 わたしは頷く。右手の薬指で光る指輪を見て、真純ちゃんはわたしが彼をまだ吹っ切れていないことを察したんだろう。さすが女子高生探偵だなあと苦笑する。グラスを握り、その冷たさで落ち着こうとした。わたしは口角を引き上げ、テーブルに置かれたメニューを取る。
「たとえば、こういうふうにメニューを見るでしょう」
 メニューには、オレンジジュースやレモンパイなどが行儀よく一枚のページに収まっている。
「それだけでもういっぱいいっぱいになるの。彼を思い出すのよ。あ、これは好きそうとか、これは頼まないだろうなとか、考えちゃうの。ごめんね、こんな話。聞いていて気持ちのいいものじゃないのに」
 真純ちゃんは神妙な面持ちで首を横に振った。
「ううん。ボクはさんが好きだからさ、さんの話はどんなものでも聞きたいって思うよ。それに話すきっかけはボクだったんだから気にしないで」
 そう言って、真純ちゃんはにっこりと笑う。わたしは眩しさに目を細めた。
「真純ちゃんは優しいね。秀一さんとお会いしていれば、何かが変わっていたのかなって思うなあ」
「そうだよ! 秀兄とさんが結婚してくれたら、ボクはさんを姉って呼べたのに!」
「お付き合い以前に面識もないのに結婚って」
 苦笑いを浮かべて、わたしは指先でティーカップの温度を確かめる。もう少し冷ましたほうがよさそうだ。そういえば、オンラインの医療専門誌でこんな研究報告を目にした。紅茶にミルクを入れて飲んだ場合、その健康効果が損なわれるらしい。ミルクティーやお湯よりも、ミルクを入れない紅茶のほうが動脈が広がるそうだ。紅茶好きで知られるイギリス人に心臓疾患が減らないのは、ほとんどが紅茶にミルクを入れるためだと述べられていた。
「真純ちゃんは、どうして紅茶を飲むのが健康に役立つといわれているか知ってる?」
「紅茶がポリフェノールを含んでいるからだろ? ポリフェノールは動脈硬化の予防効果がある」
 きょとんとした顔をして、真純ちゃんはなんでもないことのように言った。
「ええ。それじゃあ、紅茶にミルクを入れて飲んだとき、その健康効果が失われてしまう理由は?」
 大人げない質問だと分かっていながら、わたしは口にした。
「え」
 真純ちゃんは目をぱちぱちとさせた。
「紅茶にミルクを入れたらいけないのか?」
「うん」
「知らなかった。あとで調べようっと」
 スクールバッグから手帳を取り出して、真純ちゃんは紅茶にミルクはだめと書き込む。こういう素直さが真純ちゃんのすてきなところだ。真純ちゃんは手帳を閉じ、わたしをちらりと見上げた。そして、曇りのない透き通った瞳でわたしを射抜く。
「もし今一緒にいるのがボクじゃなくて三歳年下の彼なら、自信満々な答えがすぐ返ってきていたと思う?」
「……うん」
 わたしは目を伏せる。三歳年下の彼とは大学で出会った。当時、わたしは薬学部の四年生で彼は医学部の一年生だった。彼の第一印象はかわいいというものだった。彼は何年も前からの知り合いにするような気さくな口調でわたしへ話しかけてきた。メゾアルトとアルトの中間のような耳に馴染む声は、わたしに、彼を異性だと意識させた。彼は気立ても器量も優れていて、生まれつき人にかわいがられる性格だった。そして料理が上手だった。
「はは、でも秀兄も答えられたと思うよ」
 わたしは真純ちゃんの声に視線をもとの位置へ戻す。
「真純ちゃんは秀一さんが本当に好きね」
「もちろん。秀兄はギターもできるんだ。もっとも、聴いたことはないけどね」
「あら、彼はピアノが得意だったわよ。……『月光』をよく弾いてた」
 視線をずらせば、お茶をしながらゆったりとした午後の時間を楽しむ女性たちが見えた。楽しそうだ。まるで不幸なんて知らないみたいな顔をしている。誰にでも、人に言えない不平や不満、秘密のひとつやふたつがあると思うけれど、羨ましく感じてしまう。わたしは浅ましさに内心肩をすくめる。真純ちゃんはそれに気付いた様子はなく、頬をぷくっと膨らませた。なんとなくおもしろくなさそうだ。
「秀兄は声だってかっこよかったよ。低めで」
「ふふ。彼は、少し高めのやさしい声をしていたよ」
 わたしは窓側に置いていたベージュのトートバッグを膝に乗せる。これは上質で馴染みの良い柔らかな一枚革を使用していて、裏地がないから軽い。ファッション雑誌がすっぽりと収まるサイズ感で荷物がしっかりと入るため、普段はもちろん通勤にも最適だ。ゆったりと肩がけできるハンドルの長さもあって使いやすい。洗練されたシンプルなデザインだから、今日みたいにスカーフを巻いてアレンジもできる。その中から化粧ポーチを出して、わたしは口紅を塗った。小さなお菓子の箱を取り、八重桜のコサージュを出す。裏にあるダイヤルは回さず、電源をいれた。口もとへ近付け、懐かしい声で話す。
「こんにちは、浅井です。浅井成実です」
 真純ちゃんは信じられないものでも見たような顔をする。瞳に鋭い光が宿り、厳しい声が発される。
「それ、変声機?」
 わたしは首を縦に振った。コサージュ型変声機を口からずらす。
「人が人を忘れるときの順番ってこうなんだって。まず声、そして顔、それから思い出。喋りながら変声機を通して彼の声を聞いていると、どうしようもなく淋しさが込み上げてきてたまにいやになる。でも、忘れるのが怖くてずっと持ってるの」
 照れて撮らなかったたくさんの写真を後悔している。思い出になる相手じゃないと思っていた。だから、写真なんていらないはずだった。
さんも、その、浅井さん? 彼が本当に好きじゃないか。まあ、秀兄に会っていればイチコロだったかもしれないけど」
 真純ちゃんがやれやれという感じでわたしを見る。
「わたし、そんなに軽くないよ。でも真純ちゃんが言うみたいにすごい人なら、好きになっていたかもしれないね。それと同時に、秀一さんとお会いできなくてよかったとも思うわ」
 わたしは心臓よりもやや上のところにコサージュ型変声機を付け、ミルクティーをそうっと飲む。
「なんでって訊いてもいいか?」
 そう言って、真純ちゃんはコーヒーを口に含む。
「もう訊いているようなものじゃない」
 わたしは眉をハの字にし、笑った。頭の中心というか、奥というか、そういうところが急に重くなる。飲みたくないのにミルクティーをちびちびと口にした。喉へ流し込むたび、鉛を飲んでいる気分になる。完全に冷めきっていない熱が、それ以上の熱さで肺のあたりを焼く。不快だ。でも、眉間にしわが寄りそうなのを我慢して飲み続ける。そうしているうちにカップが空になった。カップをソーサーへ戻そうとして、カップがソーサーにつくかつかないかギリギリのところで指がぶるぶると震える。予想もしなかった大きな乾いた音を響かせて、カップはソーサに当たった。わたしは息を大きく吐く。何度も大きく呼吸をして、心臓の調子を整える。
「二回目は、きっと耐えられない」
 わたしは言った。
「そうだね」
 真純ちゃんはまぶたをきゅっと閉じた。
「ボクもごめんだ」
 わたしと真純ちゃんは微笑んだ。でも、その笑顔にはわたしたちにしか分からない淋しさが隠れている。
「お待たせしました、ハムサンドです。さん、コサージュがよくお似合いですね」
 そう声をかけられて、わたしが左斜め上を見ると、黒い肌と明るい金髪のコントラストが目に入った。
「ありがとうございます。……安室さん」
「そうだ。先ほどの紅茶のお話、少し聞こえてきたのですが興味深かったです」
 彼はにこにこと笑っている。わたしはぎょっとした。彼は確かカウンターでハムサンドを作っていたはずだ。ここからカウンターまでの距離を目で測ろうとする。でも、見抜いているといった様子の突き刺す眼差しで、彼がわたしと目を合わせるからできなかった。
「ああ、すみません。職業柄、耳はいいんです。それではごゆっくりどうぞ」
 作りものみたいに一分の隙もない完璧なお辞儀をして、彼はレジヘ向かった。その後ろ姿にふと不安を感じる。三歳年下の彼の分岐点は、多分、はじめて偽名を使った日だ。それなら同い年の彼は?

 朝早く、わたしは彼と部室棟の前で向き合い、彼の左手にハンドクリームをせっせと塗っていた。肌が包帯と擦れて赤くなり、痛そうだったからだ。
「しっかし、ドッジボールで骨折するとはね。ださいなあ」
 彼は左手の中指と薬指にギプスをはめていた。わたしは、彼の中指の腹から包帯をぐるぐると巻き、中指と薬指のギプスを固定した。それから、手のひらまであるギプスの下に綿のクッションを差しんだ。中指の付け根から親指の付け根に向かって包帯を巻き、クッションが動かないようにした。
「うるさい。へたくそ」
 眉間にしわを寄せる彼に、昨日の面影はなかった。
「二週間、毎朝包帯を巻き直してくれ。そう言ったのは誰よ」
 わたしはじとっとした視線を送る。昨日、ほしいものは奪ってでも勝ち取ると決めている武将や、無邪気で芯の強い少年のような瞳で険しく眉をしかめて、彼はわたしを見つめ、頼んだ。わたしは彼のまっすぐで野望にあふれた眼差しに顔が熱くなり、頷いたのだった。
「よーし、いい感じ。今日は昨日よりも速くきれいに巻けたんじゃない?」
 にっこりと笑って、わたしは彼を見上げた。
「明日から、タイム、測ってみる? 降谷」

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