惑星へのアプローチ

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 滑り込むようにレンタカーへ乗った。ハンドルはバーボンに任せて、助手席でこめかみを押さえる。バーボンと組むとすごく疲れる。いつもよりずっと気を張り巡らせるから、神経が伸びきってしまうのだ。そういえば、先輩と仕事をするときは、こんなふうに不愉快な疲れ方をしなかった。濃い霧に包まれた山奥の小さい湖水のような、少し気が遠くなるような静かさをもった疲労だった。もっとも、先輩とは離れているだけで、今も一緒に仕事をしているが。
「あの、コンビニへ寄っていただけませんか?」
 わたしは言った。
「いいですよ。何を買うんですか?」
 バーボンが応えた。
「アイスクリームです」
 目に映る何もかもが、車窓の中を移りゆく。それを、興味のない映画のようにぼんやりと眺める。バーボンの返事はない。
「バーボン?」
 バーボンは、はっとした様子で口角を引き上げる。
「モスカートもそういうものを食べるんですね。少し意外でした」
 わたしはため息をつきそうになった。バーボンはわたしをなんだと思っているのだろう。確かに、わたしはモスカートなんてコードネームを与えられている。しかし人だ。それ以上でもそれ以下でもない。甘いものくらい食べる。
" What are little girls made of? Sugar and spice, and everything nice, that's what little girls are made of "
 わたしは呟いた。
「マザーグースですね。でもモスカート。三十路でそれはどうなんでしょうか」
 バーボンが薄く笑う。腹の立つ笑い方だ。
「確かに二十八歳でリトルガールはないですね」
 そう言ってやれば、バーボンが目を見開く気配がした。この反応からすると、わたしは三十代だと思われていたらしい。当てが外れて、バーボンは驚いているのかもしれない。年甲斐もなく勝ったと思った。気分がよくなり、アイスクリームのことを考える。
「それは失礼しました。僕よりも年下でしたか」
「はい」
 アイスクリームへ思いを馳せることに夢中で、弾んだ声が出た。
「……ずいぶんと嬉しそうですね」
 少し低くなったバーボンの声に、わたしはクスクスと笑う。バーボンは存外分かりやすい。一瞬見せてしまった、限りなく素に近い部分がわたしの機嫌をよくしたと勘違いしている。年下にばかにされた気がして、わたし以上に腹を立てている。
「頭の中が大好きなアイスクリームでいっぱいですから」
「へえ、すてきな頭をお持ちのようで羨ましいです」
「ありがとうございます」
 コンビニについて、わたしはトートバッグから財布を取り出す。目当てのアイスクリームを買って助手席まで戻るのに、そう時間はかからなかった。
「三個も食べるんですか」
 半透明のレジ袋を見て、バーボンは呆れた顔をした。
「まさか。一個はこれから食べる分で、もう一個は明日に取っておくつもりです」
「残りの一個は?」
「あなたに買ってきました」
「……どういうつもりですか?」
 バーボンでも安室透でもなく、恐らく、降谷零が、害虫でも見るような目で睨んでくる。降谷零の燃やしている憤りが、わたしの首を絞めるようにじわじわと肌へ食い込む。固まっていると、アクセルを踏む足に力が込められた。わたしは急発進に驚き、慌ててシートベルトを締める。
「ひとりで食べても虚しいと思っただけのことです。しかし気が変わりました。今日わたしがすべて食べます」
 眉間にしわを寄せて、車窓へ目をやる。細い月が薄い雲の向こうでたよりなく輝いている。いつだったか、月の重力は地球の六分の一だと聞いた。月に行けば、身体の重さが六分の一になるそうだ。身体だけでなく、何もかもが軽くなればいいのにと思う。バーボンは黙っている。そして、わたしはそんなバーボンへ声をかけず、誰に言うでもなくささやく。
" What are little boys made of? "
 先輩は小さな男の子でないけれど、たばこと、お酒のほうのバーボンと、缶コーヒーと、帽子と、それからシャーロック・ホームズでできていると思う。しかしバーボンは何でできているか分からない。無言を貫いていると、レンタカーがホテルの前で止まった。わたしは何も言わず降りる。このあとわたしがチェックインをし、バーボンはレンタカーを返却してここへ戻ってくる予定だ。そして、ひとつの部屋を共有し、明日も一緒に仕事をしなければならない。バーボンは黙ったままレンタカーを発進させた。
「さて」
 ため息をついて、わたしはホテルの駐車場へ歩き始めた。トートバッグからスマートフォンを出し、慣れた手つきで電話番号を打ち込んでいく。パーキングブロックに腰掛け、耳と肩でスマートフォンを固定する。そうしてアイスクリームの蓋を開けていると、無機質な呼び出し音が止んだ。
、思っていたよりも早かったな」
「はい、予定を無視して電話しました。詳しいことは帰ってから話します」
「ホー……」
 わたしはアイスクリームをつつきながら喋る。まだ固い。
「先輩、ご飯はもう食べられましたか?」
「まだだ。今ハヤシライスを煮込んでいる」
「いつもお疲れさまです。報告がてら何か作りに行きます。食べたいものはありますか?」
「煮込み料理以外ならなんでもいい」
 先輩がかすかに笑う気配がスピーカーから伝わってきた。わたしはアイスクリームを食べ、あからさまに不満な声を出す。
「範囲が広すぎて困ります。最近、何を食べたか教えてください」
「カレーライス、クリームシチュー、ビーフシチュー、肉じゃが、おでん、里芋の煮っころがし……これくらいか」
「それなら、野菜がたくさん食べられるものにしましょうか。オイルサーディンは放っておけば完成するよう仕込んでおきますから、適当に食べてください」
 チョコレートクッキーが散りばめられた、白と濃いピンクの甘いマーブル模様へ、わたしはすっとスプーンを差し込んだ。
「君は末恐ろしいな……」
 もぐもぐと口を動かしながら首をかしげる。
「どういうことですか?」
「誰の手にもやりたくないほど、よくできた後輩だと思ったのさ」
 わたしは間髪を入れず返す。
「それなら手放さないでください」
 先輩が息をのんだ。そんな気がした。
「了解」
 どことなく嬉しそうな声色の返事を聞いて、わたしは通話終了ボタンをタッチする。それから、黒いジャケットのポケットにスマートフォンをつっ込んだ。そして、カップの隅に残っているアイスクリームをスプーンですくう。空になったカップを地面に置き、ニ個目を食べる。ニ個目のアイスクリームもぺろりと平らげて、三個目へ手を伸ばす。続いて、瞬巡ののち蓋を取った。六分の一程度食べたところで腕をさする。アイスクリームを食べて、身体がすっかり冷たくなってしまった。アイスクリームはまだ六分の五残っている。バーボンが食べるはずだった分を口に運んでいると、なんだかやりきれない気持ちになった。冷えたため息をついて暗闇を仰ぐ。星は見えない。わたしは先輩へメールを打つ。何度も書いて、書いては消した。そして、いつの間にかふにゃふにゃになっていたアイスクリームを喉へ流し込む。メールは送らないことにした。
 チェックインをし、エレベーターに乗る。そして十三階で降りる。部屋へ入り、ドアを閉めた。物理的に高いところへ来たが気分は晴れない。わたしは荷物の整理もそこそこに、熱いシャワーを浴びる。シャンプーとトリートメントは備え付けのものでなく、私物を使った。わたしとバーボンから同じ香りがするなんて、気がもめる。ソファーに座って髪を拭いていると、不自然な音が聞こえてドアが開いた。
「ノックをしてくだされば開けましたよ」
「そうだろうな、
 降谷零の鋭い声がわたしを貫いた。わたしは向けられた拳銃にすっと目を細める。予想通り、わたしがコンビニで買い物をしている間に、降谷零はトートバッグへ盗聴器を仕掛けたらしい。
「脅しのつもりでしょうが、あいにくと、わたしは死ねません。生きていく理由があります」
「赤井か」
 降谷零の目に憎悪の炎が宿る。
「それはお答えしかねます。もっとも、あなたは答えを聞いているはずですが」
 わたしはトートバッグを視線で指した。生きていく理由といっても、大層なものでない。先輩にご飯を作りに行く約束だ。苦虫を噛み潰したような顔をして、降谷零が舌打ちをする。わたしは微笑んだ。
「赤井秀一は、たらしめる証明です」
 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
 これとよく似た感覚を先輩に覚えたことがある。それまでずいぶん長い間真っ暗なところにいたのに、突如カーテンが勢いよく開けられて、眩しさにのみ込まれるような、魂が震えるみたいな、嬉しくてたまらず、どうしようもなく泣きだしたくなるような瞬間。そのとき、わたしという存在がくっきりと浮かび上がって、生まれてはじめて、それに価値を感じられた。
「寝首をかかれないか心配でおちおち眠れないでしょうが、もうベッドへ入ります」
「おい!」
「ふざけているわけではありません。『ちゃんと言え。そうしなければ人形とさして変わらない』と言って先輩がわたしを引っ張り上げてくださった日から、言いたいことは口に出すようにしているだけです」
 冷たいベッドへ潜り込むと、濡れたままの髪から鼻先へ、グリーンアップル、ローズ、アップル、ベリーの香りが届いた。甘くてかわいらしい匂いは、この空間で唯一現実味がない。降谷零を見れば、相手にされないことがよっぽど腹立たしいのか、視線で人を殺せそうな目をしている。
「降谷零。あなたの存在は、ゼロでなく、一くらいのふわふわした小さな問題です。おやすみなさい」
 わたしは目を瞑る。降谷零ほどの人なら、ゼロと一の間に、どれだけ大きな差があるか分かるはずだ。しばらくして、降谷零がベッドから離れる気配がする。
「………………おやすみ」
 不満げに呟かれた挨拶は、現実味のない香りよりも信じられなくて、どこか違う星の言葉みたいだった。

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