覆らなかった存在価値

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 想定内だった。降谷零がわたしの前からいなくなるなんて、最初からとっくに知っていた。そして、それが筋書き通りであり、正解でもあると思っている。だから、この瞳にかかる、ぼんやりとした薄い膜はお門違いだ。膜はどんどん厚みを増して、大きな雫となり頬を伝う。自分が泣いていると気づくともうだめだった。涙が次から次へとあふれて止まらない。どうやら、わたしは零をちゃんと好きだったらしい。涙がいっそう込み上げる。よかった。零を中途半端に好きでいたわけじゃなく、熱い血の通った人として愛せていた。
 零がわたしの作ったハムサンドをおいしいと言って食べてくれた日は、宝物のように胸にしまってある。誰にも盗られたくない思い出だ。あのとき、零は意外そうな顔で驚き、笑顔になった。わたしは、なんともかわいくないことに、それをどこか当然のように感じて手放しに喜べなかった。なぜかというと、そのサンドウィッチは特別だったからだ。レシピは数十年前テレビで見たもので、考案者はどこか謎めいた男だった。そして、その男こそ安室透、すなわち未来の降谷零だったのだ。まるで完全無欠が服を着て歩いているような降谷零が考える作り方なら、おいしくて当たり前だった。零が好む味になるはずだった。
 零がきらいな食べ物は、わたしと喧嘩中に用意されるボンカレーゴールドだった。今となってはささいなことで言い合いになって、わたしは手料理を作る気になれず、いつ誰が作っても同じ味になる、個性の見えない、やたらと甘いレトルト食品を温めて出した。そうすると、零の不快指数はぐんぐん上がった。それから、零に腹を立てるたび、わたしはボンカレーゴールドを準備した。その意図が嫌がらせだと察して、機嫌の悪い零はますます機嫌を悪くするのだった。
 わたしは立ち上がる。ハムサンドを作ろう。顔と手を洗えば、気分はいくらかましになった。冷蔵庫を開け、食パン、ハム、レタス、マヨネーズ、味噌を取る。そしてトマトに手を伸ばした。安室透のハムサンドにトマトはいらない。だから、サンドウィッチを零に作るとき、トマトは一度も使わなかった。しかし、わたしはトマトが入っているほうが好きで、こんなふうに自分のために作ったり、家族や友だちなどに出したりする場合、トマトを用いる。よく冷やした缶ビールと甘いジンジャエールを出して、シャンディー・ガフを作った。黄金色の液体が蛍光灯に照らされ、白々しい輝きを放つ。

天秤アイコン2

 安室さんがパン職人のおじさんと談笑するのを見ながら、俺は既視感の正体を考えていた。そして、ハムサンドに手を伸ばしたところではっとする。そうだ。安室さんはさんとほとんど同じ作り方でハムサンドを作っていたんだ。違いはトマトを使っているかそうでないか。それだけだった。しかし、すっきりしたかと思えば、新たな疑問が浮かんでくる。たいして珍しくない、むしろメジャーな料理だが、ここまでレシピが一致するものだろうか。考えろ。俺が本当に小学生だった頃、その成長とともに両親が家を空けることが増え、さんの家族に預けられるようになったあたりから、さんのハムサンドは何度も食べている。中学生になりひとりで留守番をしはじめると、俺を心配して、さんはたまに泊まっていった。一昨年、中学受験を控えていたときは、夜食にハムサンドと温かい紅茶を出してくれることもあった。紅茶はストレートだった。砂糖は入っていなかった。それはしっかりと蒸されていたんだろう。いつもふくよかな薔薇の香りを漂わせていた。そして、鼻腔をくすぐる甘さは、女の飲み物だという印象を俺に与えた。それから、気恥ずかしさを感じさせた。
 スマートフォンが震える。俺は画面を明るくした。メールが届いている。差出人はさんだった。添付写真を見ると、赤井さんの横でさんがピースサインをしていた。赤井さんはダブルピースをきめている。写真はどこかの喫茶店で撮ったらしく、一緒に写っているテーブルにショートケーキが乗っていた。ショートケーキの近くには、さんが頼んだであろう飲み物がある。コーヒーカップに入っているが、表面がホイップクリームで覆われているから何かは分からない。赤井さんはコーヒーだ。
――昴くんに注目! 今日は記念日です。
 本文はそれだけだった。おいおい、のんきだな。何やってんだよ……。スマートフォンを持ったまま呆れていると、視線を感じる。顔を上げれば安室さんと目が合った。安室さんはにっこりと笑う。
「どうしたんだい? コナンくん」
「なんでもないよ! 親戚のお姉さんからメールがきただけ」
 俺は画面を暗くした。なるべく自然に見えるよう振る舞ったが、安室さんの瞳に鋭い光が宿る。嫌な予感がした。
「コナンくんの親戚かあ。どんな人なのか気になるな」
「普通の人だよ」
「それ、普通じゃないって言っているようなものだよ。本当に普通なら、住んでいる場所や職業なんかを言うはずだ」
「ボク、子どもだから分かんない!」
 子どもらしく、えへへと笑ってみる。
「顔は似てるのかな?」
「全然似てないよ。それに、十歳以上年上なんだ」
「へえ。十歳も年が離れているのにメールをするほど仲がいいなら、写真くらいスマートフォンに入っているよね。もしよければ見せてほしいな」
 にこにこと絶対零度の笑みを浮かべて、安室さんは首をかしげた。口もとが引きつりそうになりながら、とりあえず適当な写真でも見せておこうと思い、データフォルダを探す。さんは自撮り写真を送りつけてくるタイプじゃない。だから、丁度いい写真はなかなか見つからなかった。でも、ここで見せないとますます怪しまれる。観念して、俺はついさっき受信したメールを開き、見せた。たいしたことのない本文だから、たとえ読まれたとしても問題ない。安室さんは素直に従った俺が予想外だったのか、少し驚いた表情を浮かべる。それから、画面を見て目を見開いた。真剣な顔になり、左手を顎に当てる。赤井さんと写ってる写真はやっぱりまずかったか。安室さんがさんの顔がよく見えるよう指を動かす。次に、ショートケーキが画面いっぱいになる。写真をもとの大きさに戻して、安室さんは口を開く。
「コナンくんは、このお姉さんと男の人が付き合ってどれくらいか知ってる? 今日が記念日って書いてあるけど長いのかな」
 なんだか妙だ。不自然な俺に探りを入れているのは確かだが、こんな質問をしてメリットがあるなんて考えられない。沖矢昴が赤井さんだとまだ疑っているのか? さんのいう記念日は、十中八九、赤井さんがダブルピースをした記念日を表している。さんは、赤井さんがFBI捜査官だということも、変装しなければならなくなった理由も、母さんと同じタイミングで知った。さらに、俺の家で赤井さんと一緒に暮らしている。その分性格も分かってきて、赤井さんがダブルピースをしたのがおもしろいんじゃないかと思う。安室さんなら、俺の家で生活しているさんの存在は、赤井さんの件できっと把握している。下手な嘘をつくよりも、事実を混ぜて言ってしまったほうがいい。
「それは分からないけど、二人で同じ家に住んでるから、すっごく仲がいいと思うよ」
「そうなんだ。羨ましいな」
 安室さんは、でき損ないのような笑みを浮かべた。それはとても珍しいことだった。

天秤アイコン2

 日本の女子大生なんかは、エレベーターに乗るとき、男よりも先に中へ入れられることをレディーファーストだと勘違いしているらしい。実際のところ、ドアが開く瞬間は、生命に関わる危険なときだ。ドアの向こうに銃やナイフを持った人がいるかもしれない。誰だって殺されるのは避けたいから、自分を守る方法を考える。そうしてたどり着く答えは簡単だ。他人を使って安全を確認すればいい。俺はエレベーターを目指す。エレベーターのドアが開く。中は無人だった。ボタンを押してドアを閉めると、冷たい箱が上がっていく。安室透名義で借りている部屋のある階で降りて、足を進めた。神経を研ぎ澄ませながら、家の鍵穴に鍵を差し込む。ドアを開け、施錠し、不審な点がないかどうか確認する。それから、やっと緊張の糸を緩めることができた。
 降谷零、安室透、バーボンの三つの顔を使い分け、あちこちを飛び回って仕事をしているうちに、俺はどこが自分の家なのか分からなくなってきている。ここにがいればいいのになんて情けない考えが浮かんだ。の前では何も考えず、ただの男でいられた。いいや、そうでもなかったな。かっこつける方法をよく考えていた。思わず自嘲がこぼれる。は家の概念だった。帰りたい場所であり、守りたい場所でもあった。だから手放した。今も当時と同じように、それが最善だと信じている。しかし後悔もしている。であれ、赤井の身柄であれ、うまくいきそうだったのに、うまくいかないことばかりだ。
 赤井の調査資料以来に見るは、コナンくんのスマートフォンの中で元気そうにしていた。赤井だと疑っていた男と楽しそうに笑っていた。その笑顔に影は欠片程度も見つからなかった。一緒に写っていたショートケーキは、有名な洋菓子店の本店でしか食べられないもので、呼吸が止まってしまいそうだった。俺とは、六段もある大きなそれを食べに行こうと約束していた。
 俺の胸はの残照で満たされている。のレシピでハムサンドを作ってみたり、あれほど憎かったボンカレーゴールドが無性に恋しくなって、食べたりしているのがいい証拠だ。記憶の中のを腕に引き寄せる。その身体はいかにも上品に細いものの、朝食用のシリアルを思わせるような健康な雰囲気があり、石鹸やレモンの清潔さがあった。俺はもう幻影をかき抱くことしかできない。お前はそれに幻滅するか?

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