七と零

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 真純ちゃんは何も知らない。秀兄が本当は生きていることも、沖矢昴に成りすましていることも、煮込み料理を作るようになったことも知らされていない。それはママや吉兄だって同じだけれど、家族の中で真純ちゃんひとりだけが知らないことがある。わたしが真純ちゃんたちと血が繋がっていないことだ。
 昔から、わたしは自分がパパともママとも似ていないなと思っていた。でもあまり気にしていなかった。隔世遺伝だと考えていたのだ。隔世遺伝は、先祖返りともいわれるもので、祖先の形質が一世代、あるいは数世代のちに再現すること。つまり、おじいちゃんやおばあちゃんに似るということだ。
 わたしが拾われっ子だと分かったきっかけは、十七歳の夏、エアーコンディショナーの効いたひどく冷たい部屋で投げかけた、何気ない質問だった。その日、真純ちゃんは遊びに行っていて、わたしはソファーで秀兄と吉兄の間に座りながら、レモンシャーベットをつついていた。七割くらい食べたところで味に飽きてしまって、二人にあーんと口を開けさせ、分けたのを覚えている。そして、透き通った黄色をスプーンですくいながら、作文コンクールのテーマを「私の生まれた日」にしようと思い立ってママに声をかけたことも。ねえ、わたしが生まれたときってどんな感じだったの、という言葉に、キッチンに立つママは一瞬固まり、振り返って口を開いたあと、黙り込んでしまった。わたしが訝しんでいると、ママは静かに語り出した。わたしは赤ん坊のとき、砂浜に打ち上げられたボートの中でわんわん泣いていたらしい。ママはそんなわたしを見つけて、家へ連れ帰ったそうだ。今はFBIらしからぬ悪人面の秀兄も、その頃はまだ小さかった。吉兄は生まれたばかりだった。二人とも当時の記憶はない。だから、十七年間ずっと血が繋がっていると思っていた。そのおかげで、兄妹という関係がしっかりと出来上がっていて、秀兄も吉兄もわたしを家族だと言ってくれた。でも真純ちゃんは違った。真純ちゃんは七歳だった。まだ小さな真純ちゃんに受け入れてもらえないかもしれないと怖くて、わたしはみんなに口止めをした。真純ちゃんはかわいい妹でもあり、とびきりの脅威でもあったのだ。
 真純ちゃんが生まれるまでの十年間、わたしは末っ子で、唯一の娘だった。ちやほやとされ、甘やかされて育った。赤井家のプリンセスの座をほしいままにしていたといっても過言ではない。ところが、真純ちゃんが生まれると、わたしもみんなも真純ちゃんを最もかわいがるようになった。ああ、秀兄だけは少し違っていたかもしれない。秀兄ひとりは、わたしを一番気にかけてくれていたように思う。とにかく、真純ちゃんは小さな身体に家族全員の愛をめいいっぱい受け、すくすくと大きくなった。
 ぱっと見は男の子っぽいけれど、時折女の子らしさを見せる真純ちゃん。わたしは真純ちゃんが大好きだ。かわいい。愛している。でも、やっぱり恐ろしい。わたしはわたしに自信がない。自分が、血の繋がっていない家族から愛されるに足りる存在だと思えない。だから、ありのままで愛されようと考えるのをやめた。血縁関係を持っていないというハンディキャップを背負っているわたしが、真純ちゃんと同じ土俵で戦ったところで勝機はない。姉妹で戦うというのも変な話だけれど、娘と妹は真純だけで充分だ、お前なんていらない、と言われたくなかった。わたしの敵は、厳密にいうと真純ちゃんでなく、不必要とされる可能性だった。弱者のわたしは、敵を倒すために勝てる戦い方をしなければならなかった。そこで、真純ちゃんにないか弱さを必死に演出することにした。真純ちゃんは短い髪を好み、ふりふりのブラウスやスカートを着ない。だから、わたしは髪を長く保ち、シフォン素材など、いかにも女性らしい服ばかり選ぶようになった。そんなふうに甘い鎧を纏って、人形のように愛らしい娘、妹、姉として、世界で最小かつ最大の社会である家族へ潜り込んだ。
 All the world's a stage, And all the men and women merely players?(この世は舞台、男も女もみな役者?) そうだ。わたしは芝居を続けている。嘘つきでいたから、お姫さまの地位を独占し続けられている。無償の愛なんてよく分からない。

サイコロアイコン1

「安室さん」
 閉店間際、お客さんはわたし以外誰もいないポアロのカウンター席で、ぽつりと呟いた。期間限定のあじさいのカップケーキは、ひとくち齧ったきり手付かずだ。グラスを拭いている安室さんが顔を上げる。きれいな顔立ちだなと思った。いかにも正義の味方という感じだ。澄みきった青い瞳を見ていると、悲しくなってきてしまう。自分ばかりを心配して、わたしは愛されない未来に震えている。なんて浅はかなんだろう。
「なんでしょうか?」
 安室さんは微笑んだ。とても眩しい笑い方だった。やわらかくて、あたたかく、すべてを許してくれそうな感じがした。わたしは安心しきり、ゆっくりと息を吐く。
「安室さんは、どうしても嘘をつかなければならない状況をいくつ空想できますか?」
「突拍子もない質問ですね」
 驚いたような顔をして、安室さんは目をすうっと細める。それがなんだか秀兄と被って見えて、お腹の底が少し冷たくなった。秀兄の探るような目は居心地が悪い。すべてを見透かされていそうで不安になる。
「会話なんてそういうものでしょう。それで、いくつ想像できますか?」
 空気が重くならないよう無理やり笑って、わたしは首をかしげた。
「限りなく、とでも言っておきましょうか。僕はプライベート・アイ、探偵なのでね」
 安室さんは肩をすくめ、おどけた調子で応えた。緊張がふっと緩まる。わたしはすっかり冷えてしまったコーヒーに口を付けた。冷たさは不思議と気にならない。むしろ、ぬるいような気がする。
さんは、どれくらい思い浮かべられるんですか」
 穏やかな声はどこか空虚だった。喉を滑り落ちていきそうだったコーヒーが、たちまち鉛みたいに重くなり、粘膜に引っかかる。
「わたしも、限りなく、でしょうか。お恥ずかしながら、嘘の多い日々を過ごしてきました」
「ホー……。僕の嘘は仕事のためですが、さんの嘘はなんのためでしょうか?」
「そうですね」
 わたしはあじさいのカップケーキを口へ運ぶ。アイシングの花びらが甘ったるくて、顔をしかめてしまいそうになった。砂糖とバターの塊をなるべくゆっくりと噛む。身体に悪そうな味を少しずつ飲み込んで、口を開く。
「多分、たったひとつの感傷のために。たとえどんなにたくさん嘘をついても、目的はいつも同じだと思います」
 言葉は案外するりと出てきた。安室さんは興味津々という感じで視線を送ってくる。
「目的が果たされると、どういうメリットがあるんですか?」
 わたしは思わず呼吸を止めた。冷や水を浴びせられたような心地だ。損得で嘘をついていると図星を突かれて、自己嫌悪の念が湧き上がる。それと同時に、トートバッグの中のスマートフォンが震えた。電話らしく、バイブレーションが止まらない。相手を確認すると、真純ちゃんだった。質問から逃げるように通話ボタンをタップしようとして、はっとする。いけない。安室さんの前で家族の話はしないで、とコナンくんから言われているのだった。秀兄もコナンくんの言葉に頷いていた。秀兄とコナンくんがどういう関係かは分からないけれど、秀兄は仕事が仕事だし、コナンくんは小学生らしからぬ小学生だし、安室さんに家族のことを言うと何か不都合があるのかもしれない。
「出ないんですか?」
 なんてことはない問いかけに心臓が大きく脈を打つ。
「え、あ、はい。食事の途中なので」
 スマートフォンの電源を落として、トートバッグへ入れる。不自然な返事ではなかったはずだ。
「そうですか。でも、もしそれも嘘なら、目的はやっぱり同じですか」
 安室さんがぐにゃりと歪んで見えた。なぜこんな質問を? 胸がざわざわと不穏にざわめく。探られているようで気分が悪い。小さな不安が泡のように静かに生まれては消え、消えては生まれ、だんだんと膨らんでいく。安室さんの目の奥に、得体の知れない炎が宿っている。いったい、なんなんだろう。わたしは焦る。安室さんは。この人は。
「同じだった場合と同じでなかった場合で、安室さんの人生の何が変わるんですか?」
 気づけば震える声で尋ねていた。
「変わらないでしょう」
 ぴしゃりと言って、わたしは視線を鋭くする。
「変わりますよ。赤井の存在は、赤井が思っているよりも、僕にとって影響のあるものだ。鍵といってもいい」
 鍵の使い方は二つある。一つは開けるため。安室さんの用途は恐らくこれだ。安室さんは何かを知りたがっている。わたしは鍵だと言われた。つまり、わたしは安室さんの求めているものでなく、対象への足掛かりということだ。わたしと関係のある誰かが、安室さんから追いかけられている。誰だろう。友だち、先輩、後輩……それとも同僚? もしかすると上司や部下かもしれない。でも、探偵に目をつけられそうな人なんているかしら。考えろ。
 安室さんの前で家族の話はしないで。
 切羽詰まったコナンくんの顔がまた頭をよぎる。家族。そうだ。ママ? ううん、それはない。仮にそうだとしても、ママなら自分でなんとかできる。真純ちゃんも違う。同じ探偵から探られるような場面は作らないと思う。兄二人と比べて熱くなり易くて、後先を考えず突っ込んでしまうところがあるし、年相応に未熟だし、それに心配ばかりさせられるけれど、頭はちゃんと切れるのだ。それに苗字が違う。わたしは赤井で真純ちゃんは世良だから、家族だと思われづらいはず。苗字が別なのは吉兄もだ。でも、吉兄は有名人といえば有名人だから探られる可能性がある。スキャンダルかな。……芸能人ならともかく、棋士のスキャンダル探しでここまで嫌な空気になるものかしら。そもそも、棋士のスキャンダルなんて誰が知りたいの? あとは秀兄。凶悪な顔を思い浮かべるよりも早く、血の気が引いた。家族でわたしと秀兄だけが共有している、唯一の隠し事がある。安室さんはきっとそれを知りたがっている。危険だ。赤いランプが頭の中でぐるぐると回り、サイレンを鳴らす。ポアロを出よう。
「わたしが鍵ならかけるまで」
 可憐なカップケーキにフォークを突き刺す。ろくに噛まず、コーヒーで胃へ流し込む。
「鍵をかけるのに嘘は必要ですか」
 秘密を守るのに嘘は必要ですか、と副音声が聞こえた気がした。
「はい。でも、嘘をつくのって疲れるでしょう。だから、つかなくていいのなら、それに越したことはありません」
 わたしは立ち上がる。安室さんが頷く。
「なるほど。つきたくない嘘をつき続けてきたからこそ、言える言葉でしょうか」
 わたしはレジスターへ向かいながら口を開く。なんだか無性に腹が立った。わたしがこの世で最も嫌いな人は、想像力のない人だ。そういう人は、たいてい相手の事情も自分の言葉で相手がどう感じるかも考えず発言する。たとえば、こんなことがあった。大学でお世話になっていた教授が、同窓会に行けるような人になりなさいよ、同窓会に来られる人は人に見せられる暮らしをしている人だから、と言った。それから、負い目を感じているやつは同窓会に来ない、と誇らしげな顔で続けたのだ。教授は自分や自分の暮らしに自信があるからあんなふうに言えたんだろう。そして、小学校や中学校、高校で負い目のある人があの場にいることも、そういう人が教授の言葉でどう感じるかも、どんなふうに傷つくかも考えていなかったのだろう。わたしは教授のことを慕っていたけれど、吐き気がした。負い目を感じる人にもたくさんのケースがあると思う。自業自得の場合のほかに、自分の力ではどうにもできない、とてつもなく大きな力や多くの力に流されて、もがきながらボロボロになった末、教授の言うマイナスの状態へ追い込まれてしまったパターンだってあるはずだ。そして、不平や不満をただひとりの胸のうちにそっと隠し、なんとか日々をやり過ごしているかもしれない。それなのに、負い目を感じているやつと一括りにされて、負け組のように見られれば、嫌な気分になるとすぐ想像できるのに。わたしはデリカシーのない人も嫌いだ。
「安室さん。安室さんはどうしても嘘をつきたくありません。でも、嘘をつかなければ日本が滅亡します。嘘をついて日本を救いますか。それとも、嘘をつかず日本を見捨てますか」
 嘘をつくでしょう。言外に嗤って、わたしは安室さんを見つめる。安室さんは顎に手を当てると真剣な面持ちで尋ねる。
「……どうしても嘘はつきたくないんですよね?」
「はい」
「それなら、嘘はつかない」
 真夜中の湖のように静かな返事だった。深い紺碧の空に浮かぶ冴え渡った三日月が、さざ波ひとつ立っていない鏡みたいに平らな水面に映り、佇んでいるイメージが浮かぶ。安室さんは続ける。
「そして、日本は守る」
 意志の強い声に立ち止まりそうになる。
「どちらもなんて」
「いけませんか。そもそも、なぜ二者択一なんです? どうして両方を選んではいけないんですか」
 レジスターを挟んで、わたしと安室さんは向き合う。わたしは言い聞かせるみたいに答える。
「わがままは許されないからです。子どものころを思い出してみてください。おかしやおもちゃは、二つのうち一つを必ず選ばされたでしょう? 迷いに迷ってどちらもなんて、許されなかったでしょう。やっぱり、物事ははっきりとさせて、どちらか一つに絞らないといけません。人は取捨選択を繰り返して生きています。無数の選択肢からどれかを選び取り、選ばれなかった何かを犠牲にして、 進んでいくんです」
 嘘をついて愛されるか、嘘をつかずに愛されないか。わたしは、二つの選択肢のうち、前者を選んで暮らしを守ってきた。これからもきっとそうして歩いていく。
「それは一理あります」
 安室さんがレジスターのキーを叩き、真っ黒だった電光掲示板にパッと緑の光が宿る。
「あじさいのカップケーキがおひとつで、七七七円です」
 わたしは首をかしげた。
「あの、わたし、コーヒーとセットにしましたよ」
「コーヒーは僕の奢りです。さんの気分を害してしまったことへの、せめてものお詫びです。安い謝罪で怒られてしまうかもしれませんが……」
 安室さんは苦笑した。わたしはトートバッグから財布を出す。一円玉が七枚あるか数えていると、静かに声が降ってくる。
「ご存知ですか。サイコロの上に出ている目と、陰になって見えない下の目を足すと、七になるんですよ。一の裏には六、二の裏には五、四の裏には三というふうにね。サイコロには一から六までの目しかないのに、不思議だと思いませんか。これはクレオパトラの時代からずっとそうらしいですよ。サイコロには、見えない七の影がいつもつきまとっているんです」
 わたしはいつの間にか一円玉を数えるのをやめていた。
さんの見えない七の影は、なんですか?」
 見えない七の影。それはきっとわたしが選んでこなかった三番目の選択肢だ。ほしくてほしくてたまらないのに諦めてしまった、過去であり、現在であり、未来だ。目に熱いものがこみ上げる。息を止めないと泣いてしまいそうだ。数えていた一円玉の輪郭がどんどん曖昧になっていく。
「わたしは」
 わたしの、本当にほしかったものは。
 手から力が抜けて、財布が床へ滑り落ちる。金属音を鳴らしながら小銭が散らばっていく。わたしは膝を折り、財布を拾った。小銭を拾い集めていると、安室さんもしゃがむ気配がした。視界に入り込んだ褐色の長くてきれいな指が、五円玉へ伸びる。五円玉は人差し指と親指でつままれ、わたしの手元へ近付いてくる。わたしは右手の平を上に向け、受け取ろうとした。でも、安室さんはわたしに渡さず、自分の顔の横で小さく振って見せる。
さん。これを僕にどうしてほしいですか?」
「渡していただきたいです」
 戸惑いながらわたしは答えた。安室さんはにっこりと笑い、わたしに五円玉を握らせる。
「はい。そうです。ひとつ言葉にすれば、ひとつ何かが変わるんですよ。欲しいものは欲しいと言っていいんです」
 わたしは五円玉から安室さんの顔へ視線を移す。この人には不思議な力がある。言葉が喉にせり上がってくる。
「安室さん。わたし、わたし、本当は、嘘をつきたくありません。生きているのに死んでいるみたいなんです。ちっともかわいくないありのままを、家族に愛してほしいんです」
 十年近く誰にも言えなかった気持ちを口に出した途端、涙がぼろぼろとこぼれる。いい歳をしてみっともない。
「これがわたしの見えない七の影です。でも、七を得ようとして、零になったら、どうするんですか。どうすればいいんですか。家族にいらないって言われたときは」
 不要のラベルを貼られた自分の姿を想像して、矢も盾もたまらずワッと泣きだしてしまう。嗚咽が漏れないように顔を両手で覆い隠す。安室さんは落ち着いた声で語りかけてくる。
「どんなにつらい朝も、どんなにむごい夜も、いつかは終わります。人生だっていつかは終わります。でも、海は終わりません。だから、七でなく零になったときは、一緒に海を見に行きませんか」
 安室さんの言葉は、答えになっていないのにすばらしい提案に思えた。わたしはひとりぼっちにならない。それだけでほっとした。両手を下にずらし、顔の上半分だけが見えるようにして、頷く。
「ハンドルは、安室さんが担当してくださると嬉しいです」
「はい、任せてください」
 安室さんは自信満々という顔で笑った。わたしはサイコロを思い浮かべる。ベストは七だ。それは今も今もこれからも変わらない。零は、悲しくてとてもやりきれないに違いない。でも、七が幸せで零が不幸せだとは思わなくなった。隣に居てくれる人が一人でもいる。それならば。視線をさ迷わせて、わたしは安室さんにはにかむ。安心で頬の筋肉が緩み、いつもよりも口角がふんわりと上がっている気がする。
「零が好き」
 安室さんが驚いた表情になる。零は嫌だとあれほど言っていたから、当然の反応だ。
「もしかすると、そう思える日がいつか来るかもしれませ……ん? 安室さん?」
 わたしは首をかしげた。
「気にしないでください。ああ、小銭。小銭を全部拾ってください。……こんなの、誤算だ…………」
 安室さんは片手で顔を隠している。透き通るような金髪から覗く耳は、真っ赤だった。

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