花あらしとトライアングル

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 今日の空は海と似ている。まっ青で雲ひとつない。虹彩に飛び込んでくる色があんまりにも見事で、頭のてっぺんについている蓋がパカッと音をたてて開く。身体にぎゅうぎゅうに詰まっていた、言葉にできない気持ちや人に言えない秘密。そういう重たいものが空の一番高いところへ昇っていって、頭がスッキリとする。まぶたが軽くなり、視界がクリアになる。久しぶりの感覚を右隣に伝えようとして、魂にすっかり染み込んだ声が脳内に響く。
 風流だねえ。
 まぶたの裏に浮かぶ日々は、過ぎて、振り返って、ああ、懐かしいね、なんて安っぽいことを言いながら回想する一コマの思い出じゃなくて、何年経っても、何十年経っても、生まれ変わっても、刺青や傷痕みたいにずうっと残って決して消えない疼き続ける極彩色の時間だ。川のように流れていかず、いのちに深く刻み込まれている。少しの淋しさをポーカーフェイスに忍ばせて、わたしは背筋を伸ばす。彼岸花色のバレエシューズのつま先に視線をなんとなく落とした。
 尾行されている。
 ハッとして右隣を伺えば、超弩級の笑顔を向けられた。相変わらずまぶしい。どうやら先輩は気付いていないらしい。うしろの気配は霞ほどで、気を抜くと分からなくなってしまいそうだ。神経を尖らせて周りを観察する。
「安室さん。わたし、辛いものが食べたい気分なんです」
「ホー……。辛さが一段階から五段階まであるとすれば、どれくらいの辛さのものが食べたいですか?」
「辛四です」
 食パンやらレタスやらの入った買い物袋を持ち直して、先輩は首をかしげる。
「それなら以前一緒に行ったお店の麻婆豆腐はどうでしょうか。あれ、おいしかったですよね」
「ええ。プロの味だと思いました」
「僕もそう思います。あ、すみません。割り勘でもいいですか?」
「はい」
 わたしと先輩はどちらからともなく足を速める。もちろん、追っ手を振り切るためだ。尾行を知らせる会話は、わたしと先輩の二人で決めた。尾行に気付き次第、辛いものが食べたい気分だと言う。辛さのレベルで危険度を表す。辛四はかなり危険だ。尾行のうまい、へたは、おいしい、まずいに置き換えている。素人の味と言えば追っ手は素人で、プロの味と言えば追っ手はプロだ。尾行の対象は会計を通して伝える。どちらが追われているか分かる場合、追われているほうが奢ると言って、どちらが追われているか分からない場合、割り勘と言う。わたしと先輩は大通りから横丁へ入り、右へ曲がり、左へ進み、奥へどんどん進んでいく。追っ手も静かについてくる。わたしと先輩はまた左へ曲がる。行き止まりについた。買い物袋をわたしに預けながら先輩が顎をしゃくる。わたしは頷き、先輩から五歩下がった。心臓の音がやけに耳につく。追っ手が姿を現す。わたしは思わず息をのんだ。
「何かご用ですか?」
 先輩が厳しい口調で言った。空気が一気に鋭くなる。少しでも動けば切り傷ができそうな緊迫感だ。
「偵察、苦手なんだよなあ……」
 生まれる前から知っている声に目を見開く。桃色の炭酸水を頭からかぶったみたいな気分だ。喉がきゅっと小さく縮まって息苦しい。
「偵察とは穏やかじゃありませんね」
 先輩がボクシングの構えを取る。買い物袋を地面に置いて、わたしは一歩踏み出した。もつれる脚を叱咤して、転がるように駆ける。先輩の横をすり抜け、立ち止まり、前を見据える。不安げに揺れる二つの赤と視線がかち合って、目の奥がたちまち熱くなる。
「かしゅう、きよみつ」
 声を押し出すように名前を呼んだ。清光が顔をくしゃくしゃにして笑う。
「うん。あー。川の下の子です。加州清光。扱いづらいけど、性能はいい感じってね」
「あんなに一緒だったんだから、扱いにくさなんてもう関係ないよ」
 泣き笑いを堪えて、なるべくゆっくりと呼吸を繰り返す。わたしはもう審神者じゃない。警察庁警備局警備企画課、通称ゼロだ。冷静、沈着、かつ慎重に……。歴史修正主義者が歴史を改変するのを阻むため、わたしたちはこの時代に介入したことがない。維新の記憶、函館以降はノータッチだ。つまり、目の前にいる加州清光はわたしの知っている加州清光じゃない可能性がある。
「わたしの審神者登録番号は?」
「四八六九三。語呂合わせはシャーロックさん」
「最後の第一部隊の隊員は?」
「俺、薬研、堀川、歌仙、髭切、蛍丸」
「わたしが清光を初期刀に選んだ理由は?」
「そんなの俺が一番かわいくて愛されるのに相応しかったからに決まってるじゃん……って言いたいところだけど」
 清光は肩をすくめ、困ったように笑う。
「内緒。そう言っていつも教えてくれなかったよね」
 かけていたパズルのピースがあるべき場所へはまる音がした。間違いない。わたしの顕現した加州清光だ。清光を思い切り抱きしめる。清光はあたたかかった。心臓の音になんだか泣けてきて、腕の力を強める。清光が甘えるように抱き返してくる。涙があふれて、視界がまたにじむ。ぽかぽかとした波のようなものが、まるで湧き水みたいに、涙と一緒に身体中に広がっていく。白くてなめらかな頬を真綿に触れるみたいに両手で包んだ。涙でぼやける赤い双眼をしっかりと見つめて笑う。たったひとことでいい。それだけで充分だ。きっと伝わる。魂に語りかけるように口を開く。
「おかえり」
「ただいまっ」
 清光がふにゃりと笑った。わたしは形のいい耳に唇を寄せる。
「わたし、っていうの。これからは名前で呼んで」

 清光は噛みしめるように呟いた。わたしは頷く。人からすればなんてことのない響きも、わたしたちにとっては特別だ。名前は一番短い呪だから、刀剣男士は審神者の真名を知るのを許されなかった。
だっていうのは、うしろ頭を見ただけで分かったよ」
 清光が嬉しそうに話した。
「いったいどこからつけてたの?」
「毛利探偵事務所から。俺、必死になってを探してたんだよ。でも、全然見付からなくてさ。誰かの力を借りるのは癪だなって思いながらも毛利さんを訪ねたんだ。それなのに居留守を使われちゃって。すっごく腹が立ったんだからね。まあ、が目に飛び込んできたから、怒りなんてどこかへすぐいっちゃったけど。嬉しくて心臓が爆発するかと思った。ただ、怖くて」
 清光が頭を肩口にぐりぐりと押し付ける。
が俺のこと、忘れてたらどうしようって不安で。もういらないって言われちゃったらって考えると、なかなか話しかけられなくて」
 震える声が痛ましい。清光から身体を少し離して、できる限りやさしい手つきで前髪をすく。透き通った二粒の水滴が清光の目からはじき出される。涙が一度こぼれてしまうと、あとはもう止めようがないみたいだった。ぬくもりをまた抱き寄せて、わたしは背中を一定のリズムで軽く叩く。清光の腕に力が込められる。
。人は心が燃えるなら身体も燃えるのが本当なんでしょ。俺はそう思う。俺はこんなにが好き。大好き。それなのにこの身体が燃えもしないのが悔しい。ねえ、どうしてあんなことしたの」
 あんなことというのは、危険を省みず保護対象の時代へ降り立ったときのことに違いない。状況は最悪だった。どんなに斬っても減らないどころか増える時代遡行軍に、たった一部隊だけで応戦していた。強制帰還を選べば時代遡行軍によって歴史が変わり、強制帰還を選ばなければ相討ちになってみんなが折れていたと思う。同時代での二部隊同時出陣は、審神者の同行が必要不可欠だった。だからわたしはゲートを通った。応援のおかげで時代遡行軍は九割ほど倒せた。でも、ホッとしたところで、わたしは時代遡行軍に斬りつけられてしまったのだ。刀傷はかなり深くて、わたしは椿がぽとりと落ちるようにあっけなく息を引き取った。最期に聞いたのは悲鳴のような叫び声だ。
「たすけたかった」
 わたしは言った。
「俺は折れたってよかったんだよ。主が刀を助けたいなんてあっちゃいけない感情だ」
「わたしはそういう感情が好きだよ。感情にあってはならないなんてあり得ない。それに、どんなに因数分解したって理解を得られない感情こそわたしなの」
「……知ってる」
 拗ねているようにも諦めているようにも感じられる声色は、ほんのりと熱をもっていた。清光の頭に手をそっと伸ばす。形のいい頭はやっぱり肌に馴染む。
「何? 俺撫でて楽しいの?」
 わたしは首を縦に振る。そこで、はたと我に返る。うしろを恐る恐る見る。先輩が仁王立ちになっている。すごく怒っている。とてつもなく怖い。
「あ、あの、安室さん……。買い出しの途中にすみませんでした」
 清光の腕からそろっと抜け出す。先輩は買い物袋を拾いに足を進める。
「ええ。ポアロへ急ぎましょうか」
「本当にすみません」
 先輩に頭を下げて、手帳の一ページを破り取り、ボールペンを走らせる。先輩は買い物袋を持つと、ついてくるよう視線で訴えてきた。ポアロへ向かおうとする先輩を追いかけながら、わたしは口を動かす。
「これ、わたしの連絡先。清光がわたしを見つけてくれて本当に嬉しかった。またね」
「そんな! もう別れるの!? もっと一緒にいてよ!」
 清光が縋りつく勢いで悲痛な叫びをあげた。わたしは苦笑する。予想通りの反応だ。
「ごめんね。必ず会いに行くから」
さん」
 ドスの効いた声が先輩から聞こえて、肩がビクッと跳ねる。先輩の機嫌はマイナスに振り切れてしまったらしい。鋭い空気に縮み上がりつつ、先輩の横に並んで空を見上げる。やっぱり、わらっちゃうくらい天気がいい。わらっちゃうくらい不思議なことがたくさんあって、わらっちゃうくらい色とりどりの感情が心の中で暴れていて、もうよく分からない。確かなのは、わたしが幸福だということだ。
「お前にはまだ俺の隣にいてもらわないと困る」
 先輩がぽつりと呟いた。風できらきらと震える金色がうつくしくて、わたしは目を細める。帰りに花屋へ寄ろう。そして、熱い緑茶を二人分いれて、ゆっくりと飲もう。キッチンに立つのもいい。花と、緑茶と、新しい時間のエネルギーになる食事があれば、殺風景な部屋もふわっと明るくなるはずだ。

inserted by FC2 system