妖精の羽化

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 四十、四十五、五十、六十、七十、八十……。スピードメーターの赤い針は動きを止めることなく右へ進む。右うしろを確認すると、左車線から右車線へ移る青のスバル360が一台見えた。青はしあわせの色だ。『青い鳥』でもサムシングフォーでもそう決まっている。スバル360は沖矢昴として生活している秀兄の愛車と同じ種類だ。
 昴ことプレアデス星団で最も明るいのはおうし座イータ星で、青色の光を放つ。星は表面温度が高ければ青く光り、表面温度が低いと赤く光るらしい。青よりも赤のほうが熱そうなのに不思議だ。見ただけで分かることは何においてもそう多くない。目に映るものがすべてではない。そして、知らないくらいがちょうどいい。
 わたしはアクセルをしっかりと踏む。ハンドルを右へ少し傾けて、ピンクのマーチを本線へなめらかに合流させた。車内は女性ミュージシャンの歌声が流れていて、二人掛けの後部座席が真純ちゃんの小さなベッドになっている。
 家族で出かける日、ハンドルはだいたいママだった。助手席は吉兄が使って、後ろの座席はわたしと真純ちゃんが座った。遠出すると、幼い真純ちゃんは必ずわたしの太ももに頭を乗せ、すやすやと寝息を立てた。わたしは感じる重みとぬくもりにほほえみながら、ブランケットをかけ直したり、天使のような横顔を眺めたりしていた。
 高速道路を駆けること一時間、海が見えた。海はどこまでも青く、悠々と構えている。何千年も前からあって、何千年も先まで続きそうだ。
「海は終わらない」
 確かめるように呟いた。大丈夫。大丈夫。料金所を抜け、一般道へ入る。カーナビゲーションの指示に従って海を目指しながら、ほんの数日前の出来事を、本のページをめくるみたいに自然に思い出す。
 閉店直前のがらんとしたポアロを出たあと、いつの間にかつけられていた盗聴器を処分して、わたしはスマートフォンの電源を入れた。それから吉兄に電話をかけた。本当は秀兄の声がすぐにでも聞きたかったけれど我慢した。コナンくんに伝言を頼むのもやめた。安室さんへの警戒心を思い出して、秀兄との接触をしばらく避けなければならないと考えたからだ。吉兄と話して落ち着きを取り戻すと、電話帳からママを呼び出した。わたしの話を聞いて、ママは、好きにしろ、とだけ言った。ママの好きにしろはすごい。わたしがどんなふうにしてもママはうしろにいてくれる。そんな安心感が不思議と湧く。ありがとう、と返して、わたしはママに真純ちゃんと代わってもらった。
「着いたよ。起きて」
 駐車を終えて、わたしは言った。真純ちゃんがまだ眠そうにあくびをしながら身体を起こす。
「おはよう」
「うん。おはよう」
「よく寝てたね。前はわたしの運転に怖がってずっと起きてたのに」
 わたしはクスクスと笑う。枕代わりにしていた柴犬のクッションをもとの位置に戻して、真純ちゃんは口を開く。
「しかたないだろー。姉さん、初心者マークを付けたばかりだったんたから」
 わたしはピンクベージュのハンドバッグを持って愛車から降りる。真純ちゃんはドアを開け、外へ出ると伸びをした。ドアを閉める音を二つ聞いて、わたしはロックをかける。
 海辺のレストランは空いていた。肌寒くなってきたからだろう。わたしは魚介たっぷりのシーフードパエリアのランチセットを注文して、真純ちゃんはスペアリブパエリアのランチセットを頼んだ。パエリアはオーダーを受けてから作られるらしく、前菜を食べきってもテーブルにしばらく乗りそうにない。
「真純ちゃん、聴いてほしいことがあるの」
「うん。なに?」
 呼吸をひとつして、お腹に力を込める。大丈夫。大丈夫。
「わたし、真純ちゃんたちと血が繋がってないの」
 大切に抱えてきたひめごとを声に出して、胸がすっと軽くなったのは一瞬だった。わたしの言葉は、わたしのもののはずなのに、わたしのあずかり知らないところで成長していく。たとえば真純ちゃんの心の中で。驚き、戸惑い、懐疑、推量などが加わって、たったひとつの事実はハリケーンみたいに荒々しい破壊力をもつに違いない。肺に入ってくる空気が鉛のように重い。全身が重い。重力が二倍になって、地面へぐっと押さえつけられているみたいに感じる。沈黙が痛い。
「それは、家族の誰ともってこと?」
 真純ちゃんが訊いた。
「そう。真純ちゃんとも、吉兄とも、秀兄とも、ママとも、パパとも、血が繋がってないの。本当は拾われっ子なの」
 わたしは言った。
「やっぱり」
 真純ちゃんは言い、続ける。
「実はそうじゃないかって少し思ってたんだ。でも、いざ言われてみるとけっこうショックだな。当たってこんなに嬉しくない推理ははじめてだよ」
 真純ちゃんは天井を仰ぐ。
「そっか。そうか……。それで?」
「え?」
「ほら、打ち明けるってことは何かあるんだろ? これからどうするかとか、どうしたいかとか」
 首をかしげる真純ちゃんがあまりにも自然でいつも通りすぎて、わたしは固まる。
「もしかしてボクが怒ったり罵ったりするって想像してた?」
 わたしはこくりと頷く。真純ちゃんは眉間にしわを寄せ、不満げな顔をした。腹を立てたような表情でわたしをじっと見つめる。わたしも真純ちゃんを静かに見つめ返す。数組のお客さんの話し声も、ナイフやフォークの動くかすかな音も、遠ざかっていく。真純ちゃんの唇が動く。
「血縁関係がないことは本当に薄々分かってたんだ。でもボクは誰にも何も言わなかった」
 真純ちゃんは言い、続ける。
「こけて、膝を擦りむいて、血を見て、どの家の人か判断するなんてできないっこないだろ。ボクたちは、同じものを食べたり、同じテレビ番組を見ながら同じタイミングで笑ったり、同じシャンプーを使ったり、同じベッドで寝たりしてきた。血よりももっと深くて透明なものを身体に等しく取り込んで成長してきたんだ。身体をちょっと輪切りにすれば、そういう積み重ねがあふれ出てくるよ。ママは、真純はに育てられたようなものだってよく言ってる。ママが離乳食を食べさせようとしても食べないのに、姉さんがスプーンを持って食べさせようとしたら簡単に口を開けて、ボクはひな鳥みたいに食べたって。それに」
 真純ちゃんは泣きそうな顔で深呼吸した。
「今さら他人なんて。ボクのこと嫌いなのか」
 口を開けたり閉じたりして、わたしは声を押し出す。わたしの気持ちが、わたしの思っている通り、過不足なく伝わりますように。
「好きにきまってる」
 詰めていた息を短くこぼして、真純ちゃんが安心したようにわたしの目を見た。真純ちゃんのまつげはきらきらと濡れている。
 店員がパエリアを持ってきて、テーブルに置いた。わたしと真純ちゃんがお礼を言うと、店員はにっこりと笑って応え、離れていく。サフランの黄色や海老の赤色など、鮮やかな色彩が網膜を刺激する。食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。店内のあらゆる音はもう遠くない。
「姉さん。お腹、空いてる? 食欲はある?」
「うん」
「それなら大丈夫。人生はこれからさ」
 真純ちゃんは八重歯を見せて満足げに笑った。そして手を合わせる。わたしも両手をぴったりとくっつける。
「名言だね。なんでもできる気がしてきた」
 十七歳の夏からずっとあちこち痛くてたまらなかったけれど、目に映るすべてが輝きを一気に増した。わたしたちはちゃんと家族で、ほんものの姉妹だ。
「なんでもできるよ、ボクたち」
 胸を張って、真純ちゃんは力強く応えた。

サイコロアイコン1

 安室さんに会いたかった。恋という名前の思いはないけれど、知らないふりをできない気持ちがあった。客足の少ない時間帯を選んでポアロの扉を開ければ、安室さんが振り返る。
「いらっしゃいませ。……雰囲気が随分と変わりましたね」
 わたしをカウンター席へ案内して、安室さんは人好きのする笑顔を浮かべる。それがなんだか不自然に見えて、気持ち悪さがわたしの背筋をゾワゾワと走った。
「イメージチェンジですか? 何かありましたか?」
「自分の人生だから、自分が本当になると決めました」
 ライダースジャケットを脱いで、わたしは言った。安室さんが目を細めながらグラスを拭く。なんとなく居心地が悪くなって、わたしは視線を安室さんの手もとに向けた。そして、口を、あ、の形に開ける。
「すごくきれいな癖ですね」
「どこかおかしなところがありますか?」
「いいえ。布巾を手の中で扱うしぐさや、指使いのしぐさがきれいだなと思ったんです。そういう動きはその人の身体に浸透した癖で、美しいものは生涯その身体に残り続けて、歳をとっても、自分が誰か分からなくなっても、決して消えない気がします」
 安室さんは両手を見つめ、ふっとほほえんだ。心がほのかにあたたまり、思わずこぼれてしまったような表情だった。一瞬のきらめきが網膜に焼き付いて、呼吸が止まる。チーズと発音すれば、笑顔はいくらでも作れる。でもほほえみは作れない。ほほえみは気持ちの奥から自然に湧いてくる泉みたいなもので、その地下水の水脈を持っているかどうかだから、ほほえみは特別な一瞬だ。
「ありがとうございます。さんはいい観察眼をお持ちですね」
「観察眼なんて大層なものでは……。たぶん、安室さんだからです。ほら、人を惹きつける人っているでしょう?」
「ああ、最近僕もそういう人を見つけましたよ。いささか複雑ですが」
 安室さんは肩をすくめる。一見するといつも通りだけれど、日常を気取っている姿だ。まぶたの震えが止められていない。飼い慣らせない感情が褐色の肌の下で暴れている気配がする。メニュウが安室さんの手でわたしの前に広げられる。サンドウィッチやらレモンパイやらの写真が視界を埋め尽くす。視線を上げると、訓練されたような笑顔があった。沖矢昴の、何かを覆い隠すような、有無を言わせない笑い方と似ている。だから、放っておけないとおこがましくもほんの少し思った。

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