花影

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 あっ、と思ったときにはもう遅くてわたしたちは出会ってしまっていた。五条さんはそれを面白おかしく運命と言うけれど、運命かどうかとか、運命というものが果たして存在しているかとかそういうことはわからない。運命と呼ぶには事故みたいなもので、というか実際に事故で突然すぎた。
 とびきりに寒い冬、空気は骨まで透き通って綺麗になっていくような冷たさだった。空には蜜柑、瑠璃、うす葡萄、もも、うっすらとした灰色の雲が夢のように美しく広がっていた。嘘みたいな景色だった。そのなかで嘘みたいに車が滑った。車の前には知らない男の子がいてわたしはとっさにとびだした。男の子に思い切り体当たりすると簡単にころがった。男の子はあちこち擦りむいたかもしれなかったけれど、とびだしたわたしはぜんぜん痛くなかった。傷ひとつない。すぐに確信した。ほっとしたのも束の間、後ろから今まで聞いたことのないような大きな音がする。振り返る。なにかが飛んだ。
 飛ばされたのは、わたしのからだ。
 その日わたしは初めて術式を使っていた。あの時、あの瞬間は確かに分岐点だ。
 伏黒恵がいなくても本当は生きていけることを知っている。それでも恵くんが現れて何もかもが変わり恵くんは最初からわたしの中にいたような存在になってしまったから、恵くんのいない人生はもう考えられない。たとえ呆けて何も分からなくなったとしても、たましいの一番深い所はあの鮮烈な始まりから連なるすべてをいつまでも覚えている。
 ただあの日恵くんはまだ小学生三年生でわたしは不思議な体験をした中学二年生、今では高専一年生と一応社会人二年目と年がそこそこ離れている。どこか胸がときめく感じを思わせる運命という言葉はやっぱり不適切な気がする。わたしたちの関係に名前を付けるとしたら運命よりももっと然るべき呼び方はある。たぶん。別の呼び方をきちんと考えたり、ましてや口にしたりしないのは名前はこの世で一番短い呪だからで、ひとたび言葉にすればわたしはたちまち雁字搦めに縛られるだろう。なんでもないけれど他とは違う曖昧さがちょうどいい。
 こんなふうに言ったら五条さんは口をへの字に曲げる。面倒くさ、と言って続ける。まったく頭でっかちだね。そこでいつも運命についての話は終わり、五条さんはまるで何もなかったかのようにケロッとした顔で違う話に移る。不定期に幾度となく繰り返してきたやり取りは慣れっこだ。
 五条悟という厄介な気分屋に振り回されるのは今に始まったことではない。
「げ、隣かよ。空室なんて他にいくらでもあったでしょ」
 わたしの横で恵くんが言った。
「おっ、伏黒! 今度こそ元気そうだな!」
 部屋の入り口から宿儺の器がひょっこりと顔を出す。こちらへ向かってくる器に体が強ばった。わたしの術式が役に立つかもしれないということで気絶している姿を見たことはある。こうしていると普通の男の子みたいだ。わたしを見る目は誰だろうという疑問の色をくっきりと示している。
 あたかも当然のように五条さんに後ろから抱きすくめられる。見えなくても芝居がかった動きだったことは想像に難くない。恵くんがいかにも不機嫌そうな顔になる。
「だって賑やかな方がいいでしょ?」
「授業と任務で充分です」
「まっ! いいっしょ!」
 最強による真綿のような拘束は解かれない。ここから抜け出すことは諦めている。害はない。されるがままを選び続ける理由はそれで充分だ。
 頬を寄せられニッと笑う気配がする。大人はいつも笑っている。
「こちらは一級術師のちゃん。ものすごく使い勝手が悪い術式だから卒業生だけど寮暮らしをしてる。ここで分からないことがあったらなんでも聞くといいよ。頼りになる。はい、サングラス取って! ひと言!」
 わたしはため息をついて言われた通りサングラスを外す。まるで青い月を閉じ込めたような瞳のように特別見えすぎる目を持っているわけではない。呪霊が見えても祓えないでいたころ、見えていることを悟られないために五条さんがお下がりでくれた。この薄いレンズ二枚があるだけで心強かった。制服を着なくなったわたしにとっくに必要ないことは分かっている。ただ子どものころの神様みたいなものでなんとなくそのまま使い続けている。顔を上げて宿儺の器と目を合わせた。やっぱり混じっている。
です。よろしくお願いします」
 わたしは微笑んだ。
「虎杖悠仁です! よろしくお願いします!」
 虎杖くんは風を切る音が聞こえそうなほどの勢いで頭を下げる。
 五条さんが腕を解いて意気揚々と手を叩く。
「さ、明日はお出かけだよ! 三人目の一年生を迎えに行きます。僕はこれで失礼するよ。あとは若い三人でー」
 そう言うとくるりと背を向けた。嵐のようにやって来て嵐のように去っていく。五条さんには重力なんて関係がなくて、圧倒的な身軽さの前ではきっと一切合切歯が立たない。伸びやかすぎるものは時として迷惑だろう。でもわたしには眩しくて仕方がない。大人になればあんなふうになれると思っていた。なりたかった。
 大人になるということは、自分のつまらなさに気付くということだ。本当はもっと色々なことができるという根拠のない過信があったし、ここではないどこか遠くへ行きたかった。思い立ったらすぐどこにでも行けるような軽快さは時間を重ねれば自然と身につくものではない。五条悟だから持ち合わせているものだと知った。それなら。
 再び虎杖くんを見る。そして恵くんも。
「虎杖くん。これから先の嫌なこととか辛いこととか、半分はわたしのせいにしていいよ」
 虎杖くんを助けたのは恵くんで恵くんを助けたのはわたしだ。恵くんが呆れた顔をする。
さんはもう俺の半分を持ってますよね。それに」
 恵くんは一呼吸躊躇うようにしてわたしと目を合わせた。目の奥底まで見られている気がして息がうまくできない。視線を逸らしたり瞬きしたりすれば均衡が崩れる。そんな緊張感が肌を刺す。
「なんで進んで恨まれようとするんですか」
 納得がいかない表情は恵くんの優しさだろうか。それとも人間性について思うところがあるからだろうか。どちらにせよ、わたしはわたしだ。
「けじめだよ。わたしは他人をどうこうできるほど偉くない。何かを変えることも刺々したものから守ることもできない。だからせめて恨まれるくらいはしないといけないと思う」
 どこにも行けないなら、良いことも悪いこともぜんぶ濾過してこの場所をまるごと愛していく。

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