開花前線

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 子どものような無邪気さと大人のような有無を言わせない雰囲気によって、わたしに二か月間の期限付きで小さな使い走りができた。その使い走りは骨折だらけで入院したわたしのためにお花、本、お茶、おかしを持って来てくれた。わたしが両手が使えないうちはお花を花瓶にいけてくれたし、本はページをめくるなり音読するなりしてくれたし、お茶はいれてくれたし、おかしは好みに合わせてくれた。ふたりで宿題をする日もあった。わたしたちは多くのことを共有した。
 男の子はすこし生意気で、年の割に斜に構えているというか物事を冷ややかに見ている感じがした。わたしと似ていた。
「どうせ聞いてるんだろ」
 恵くんがむくれて言った。
「喧嘩のことなら」
 恵くんが不良を圧倒していると聞いたとき、驚いたけれどそれだけだった。そこに良いも悪いも正しいも間違いもない。
 わたしはただ物事を眺めるようにして過ごしている。
 幼稚園でバースデイカードに書くための将来の夢を聞かれたことがある。なりたいものなんてなかったけれど、何か答えなければいけないという暗黙の了解に従って子どもらしさを捻り出した。わたしが振り分けられたさくら組ではみんながケーキやさんになりたがっていた。わたしもケーキやさんと言おうとしたけれど、なんとなく、なりたくもないアイスクリームやさんと言った。
 ごめんなさいといいよはセットで謝られたら必ず許してあげましょう、と言われた通りにさせられる茶番劇が奇妙だった。悪いことをして謝るのは当然で、許すか許さないかは別のところにあるはずだ。どんなに許せないことでも謝られた途端それでおしまいになるのなら、謝られなくていいから一生許さなくていい権利が欲しかった。謝罪は所詮自己満足で正しくも美しくもない。
 小学校ではどんなに磨いても泥は泥だとしか思えなくて手が汚れるのも嫌だったから、泥団子作りで決して遊ばなかった。
 同級生は同じ箱に規則正しく机と椅子を並べただけの他人を簡単に友だちと呼んでいて気味が悪かった。そんな友だちの悪口をお互いに言いながらわざわざ連れ添って行動していて、友だちというラベルが使い捨ての印に見えた。
 気に入らないことはほかにもたくさんあったけれど、嫌いなものが増えていくこともいやで事なかれ主義になっていった。
 ブレザーを着る頃には自分の意見よりも相手が欲しがっていそうな言葉を差し出すことが自然になった。本当に大切なものは一つか二つかしかなくて、本当のことはわたしが知っていたらそれでいい。あとはどうでもよかった。怖くもなければ辛くもなかった。
 色々なものが信じられなくて厭世的だった。
「あいつら、他人と関わる上での最低限のルールを分かってないんだ。相手の尊厳を脅かさない線引き、互いの実在を成す過程。それがルール」
「うん」
 わたしは恵くんの持っている買い物かごに生姜を入れる。みょうが、ねぎ、紫蘇、かいわれ大根も順番に入れていく。
「悪人が嫌いだ。更地みてえな想像力と感受性でいっちょ前に息をしやがる。善人が苦手だ。そんな悪人を許してしまう。許すことを格調高くとらえてる。吐き気がする」
 恵くんは言い訳をするようになめらかに話した。わたしは恵くんにとって善人だろうか。それとも悪人だろうか。そう一瞬考える。わかった所で仕方がないから買い物に集中する。豚肉、それから納豆とたくあんと玉子がいる。トマトを買って白だしでスープにしよう。
 歩き出すわたしに恵くんが続く。
「なにも言わねえの」
 恵くんの物差しが善悪であるようにわたしのそれは好き嫌いだった。そういう頭のなかのことは他人にとやかく言われる謂れはないと思っている。その逆も然りだ。自分が助けた人間がひとを殴るところは想像したくないけれど、それを言ってしまったら恵くんにほかのことまで背負わせるかもしれない。
「その考えも喧嘩も恵くんだけのものでしょう。それにわたしが言えることはないよ」
 そう言い、安っぽい蛍光灯の光の下で居心地が悪そうなトマトを手に取った。なるべく綺麗なものを探して選ぶと恵くんに視線を移す。恵くんは口をへの字に曲げていた。時々こういう顔をされる。
「そういうとこ……」
「どういうところ?」
の前ではなんでも理解される。そういう風に勘違いしそうになるところ。理解って言えば聞こえは良いが許しと同義に近しい」
 恵くんは注意深そうに言い、続ける。
は善人じゃない。悪人でも決してない。全体的に甘いのに、たまにすげえ冷たい」
「そう」
 相槌を打つだけで謝らなかった。
「それが他人との境界線を守るっていうことじゃないの」
 意図せず無機質になってしまった声色に内心眉をひそめながら歩き出す。
 嫌いなひととは取り合わないで、好きな人たちには優しくするよう努めてきた。でも優しいだけだと都合の良い人になりかねない。信頼されているようでその実はただの依存なんてやりきれない。誰かの自尊心の玩具にされてたまるか。だからわたしは最終的な決定権はそのひとにあることを示す。突き放す。人間は一人ひとりで生きていくべきだ。
「俺は」
 手首が捕まれる。手の力はすぐに軽く抜かれて、指が添えられているだけになる。恵くんの指はやさしい温度だった。
「俺も他人かよ」
 恵くんは言った。ほんのすこし下げられた眉のしたで瞳の奥が水面のように揺れている。恵くんは聡い。わたしの影を踏みそうなほど近くまで来ている。それに気付いているかはさておき、この献身的な保身が明るみに出ると憂鬱だった。綺麗なだけでは生きられないけれど、綺麗事だらけで生きていけたらと願い続けている。
 わたしたちは他人だ。でも、善悪も好き嫌いも関係ないところで、たとえば南の島あたりで何も考えないで居られるのなら、わたしと恵くんが他人でなければいいのにと思う。

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