愛を明言してはいけない

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 家に入った途端、わたしは右隣のガエリオを見上げた。イヤリングの揺れる気配がする。遠足は帰るまでが遠足です。誰かがそう言っていたような気がするけれど、わたしたちの場合、パーティーは二人で飲み直すまでがパーティーだ。

「明日は任務だから少しだけだぞ」

 ガエリオはやれやれという顔で言った。軽く頷いて、わたしは手を振りながら二階へ上がる。早くこのドレスを脱ぎ捨ててしまいたい。雨水を吸ってぐっしょりと濡れたみたいに重たくて邪魔くさい。今よりもずっと昔はきらびやかなドレスに憧れていた。でも、実際にそれが叶ってみると着飾って得られる華やかさよりも息苦しさのほうが目立つ。原因はコルセットの物理的な圧迫だけじゃない。ドレスを着てパーティーへ行くと人の嫉妬や羨望の視線がねっとりと絡み付いてくるのだ。

「あー、疲れた……」

 みんな一緒という言葉が嫌いだ。朝眠いのも、冬が寒いのも、生きていて辛いと思うのもみんな一緒だとお母さまは言う。一緒だから我慢しなさいとも。わたしはそう言われるたび腹を立てる。眠さも寒さも辛さも人によって感じ方は違う。仮に同じだとしても、だからなんだというんだろう。みんな一緒なら、眠くても寒くても辛くても耐えないといけないのだろうか。みんな一緒だから、胸の辺りで渦巻いている不安を打ち明けることは許されず、なかったように笑わなければならないのだろうか。そうすることは多分賢い選択だと思う。なぜなら傷付くのがわたしだけで済むからだ。他の人に迷惑をかけない。でも、必死にもがいている瞬間を、本当の意味でなかったことにはできない。わたしはバカみたいに生きたいと強く思う。わたしの一番の味方はわたしだというのに、そのわたしに嘘をついて裏切り苦しむなんてごめんだ。周りに嘲笑されたって耐えてみせる。きっと、笑われて、笑われて、強くなる。

 部屋に入ってドレスを床に落とす。体がうんと軽くなり、ほうとため息をついた。そして、姿見にうつった自分が目に入る。髪も目も肌の色もガエリオとアルミリアによく似ている。この容姿を見るたび不思議な気分になる。わたしはもともとこんなふうじゃなかった。首を横に振って、クローゼットを開ける。一番気に入っているパジャマを取り出す。コットンの真っ白なワンピースはマキシ丈で裾がレースになっていて、七分丈のパフスリーブとウエストをきゅっと絞るリボンがかわいい。その場でくるんと回ってみる。それからドレスをハンガーにかけて一階へ向かう。階段を下りる足取りは背中に羽が生えたみたいに軽やかだ。

 キッチンを覗くといつも通りガエリオがいて、わたしは口元に笑みを浮かべた。ガエリオの、顔に似合わずしっかりとした背中が好きだ。温かい腕も素直に変わる表情もなんだかとても尊いものに思える。

「確かトマトと生ハムがあったはずだよ。それからブルーチーズも」
「ブルーチーズはいい」

 ガエリオは振り返らず応えた。多分眉間に皺を寄せている。

「食わず嫌い」
「カビの生えたチーズなんて食べられるか」
「おいしいのに。クラッカーはあったかな?」

 ガエリオの隣に並んで、わたしはシンクの上の戸棚を開けた。ひょいとつま先立ちをしてクラッカーの箱を取る。ガエリオがちらりと視界に入った。微妙な顔をしている。わたしは心の中で首をかしげた。

「どうしたの?」
「なんでもない」
「そっか」
「ああ」

 ガエリオはわたしから離れ、ワインクーラーに氷を入れ始めた。それを見て、わたしもエプロンを着ける。おつまみを準備するのはわたしの役目で、ワインの用意をするのはガエリオという決まりになっている。

 さて、どうしよう。とにかくトマトは輪切りにして、塩とバジルとガーリックパウダーを混ぜたオリーブオイルに浸けておこう。そうして食べるときっとおいしい。料理はすべて勘でいかなければいけない。とびっこが少し残っているから生ハムに添えて二品目。それから、わたしの自慢のきのこと卵のふわふわ炒め。ポイントはたっぷりのバターと小さじ一杯のマヨネーズだ。それから、もう一品。ガエリオはブルーチーズを食べないからクラッカーにブルーチーズを乗せたもののほかに、あ、そうだ。アボカドとツナのブルスケッタにしよう。クコの実を三粒くらい乗せておけばそれらしく見えるはずだ。

「先に行ってるぞ」

 ガエリオが言った。

「うん」

 盛り付け方はロココプレートで決まり。これはわたしが考えた名前だ。食事をする人それぞれのお皿に、料理をみんな一切合切いろとりどりに美しく配合させて並べると、テーブルがずいぶん賑やかになる。そして、華麗になって、なんだかとても贅沢なご馳走のように見えるのだ。今日はつやつやと光るトマトの赤い夕日の隣に、生ハムの夕靄。夕日の光が靄の中に溶けて滲んだため、こんなにやわらかいピンク色の靄になったように思える。そのピンク色の靄がゆらゆらと流れて、ブルスケッタの草原へ。ふわっふわの卵はどこまでも続く菜の花畑。料理は見かけが第一だ。だいたいの場合、それでごまかせる。わたしは本当においしいご馳走は作れないから、いつも体裁の美しさにこだわる。

 ロココという言葉は、華麗のみにて内容空疎の装飾様式と定義されているらしい。名答だ。美しさに内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。決まっている。だからわたしはロココが好き。

「お待たせしました~」

 渾身の出来の二枚のうち一枚を両手で持ってテーブルへ歩いていくとガエリオがソファーにいて、わたしは今日も泣きたくなった。この瞬間のガエリオは、わたしが現れるのをちっとも疑わず、ただ静かに信じている。わたしのためだけにそこに座っているのだ。もしかしたら、大それた考えかもしれない。でも、これくらいの幸せは許してほしい。

「ほら、運んで」
「分かってるさ」

 二人で仲良く並んでキッチンに戻り、わたしはクラッカーのブルーチーズ乗せが数枚並ぶ小皿と二組のナイフとフォークを器用に持ち、ガエリオはメインのもう一枚を運ぶ。

「少しだけだって言っただろう?」

 品数を見て、ガエリオは呆れたという顔をした。

「残してもいいよ」

 わたしは応えた。

「お前はずるいな」

 ガエリオは言った。わたしは、ガエリオがひとつとして残さずきれいに食べてくれることを知っている。

「いい女はずるいものだよ」

 なんとはなしに言って、ガエリオを見上げた。二つの視線がかち合う。しかし、ガエリオはすぐ顔を反らしてしまった。テーブルに料理、ナイフ、フォークを並べて、二人でソファーに座る。ワインはわたしの好きなモスカートだ。このワインはティファニーブルーが印象的な透明のボトルに入っている。キンキンに冷やして飲むとおいしい。マスカットの甘さが自然に引き出されていて、ひとくち含めば華やかな味が口いっぱいに広がる。舌の上でぴりぴりと弾ける微発砲が心地よく、後味はさっぱりとしている。普通のワインより低いアルコール度数で、ジュースみたいに飲みやすい。

「乾杯」

 ワイングラスを少し掲げて、ガエリオが言った。わたしも同じようにする。

「乾杯」

 透き通った甘さが喉を通っていく。ああ、おいしい。ゆったりとした気持ちになるのを感じながら、わたしはガエリオから最初に選ばれるロココプレートの色を見守った。この瞬間はとてもどきどきする。めでたく一番に選ばれたのはトマトのオリーブオイル漬けで、ガエリオはひとくち食べると目元に笑みを浮かばせた。わたしはほっとする。やっぱりこうして正解だった。ロココプレートの色彩とモスカートがするするとお腹へ吸い込まれていく。

「うまい」
「ふふ、ありがとう。ガエリオはいつもおいしそうに食べてくれるから嬉しい」

 ちゃぽん。にっこりと笑って、わたしは付けたままだったイヤリングをモスカートに落とした。ゆらゆらと揺れる細かな泡が美しく、うっとりとする。のぼっていく泡と反対に、涙みたいな形をした真珠は透き通った甘さの底へ沈んでいく。落ちるところまで落ちた真珠を見て、一抹の喜びを感じた。そしてなんだか淋しくなる。ワインビネガーに真珠を溶かして飲み干したクレオパトラもこんな気持ちだったのだろうか。

 ガエリオはぎょっとした顔で腰を浮かせた。ソファーが軽く揺れる。

「何をやっているんだ。それはマクギリスからもらったものだろう」
「うん」

 でも、大事なものじゃない。

 わたしはガエリオの左手を右手で握り、座るよう促した。ガエリオが腰を下ろして、ソファーがまた揺れる。わたしはそのままガエリオの左腕に両腕をやわらかくからめ、ガエリオの肩に頬を寄せて目を閉じた。ガエリオは肩を震わせる。

「ねえ、ガエリオ。いつからわたしを名前で呼ばなくなった?」

 ひゅっと息を飲む音が斜め上から聞こえた。

「……放せ」
「放さない。だってマクギリスと結婚したらもう――」
「マクギリスはいいやつだ。それはお前も知っているだろう。きっと幸せになれる」
「『きっと』なんて不確かな可能性に未来を預けることはできない」

 わたしはガエリオの左腕に額を寄せた。わたしたちは血の繋がった実の兄妹だ。でも兄としてガエリオを見たことは一度だってない。ガエリオはいつも一人の男だった。これまでも、これからも。

「お前は幸せになるんだ。そうでなければ、いけない」

 わたしを押し返して、ガエリオは言った。

「そうだよ。だからマクギリスじゃだめなの。ガエリオがいい」

 わたしは俯いているガエリオの頬を撫でる。白魚みたいになめらかな手はこの体で自慢できるひとつだ。ガエリオは秘めた心が暴れださないようぐっと堪えているような顔をした。それを見て、わたしの中の可能性が確信に変わる。

「ガエリオ」

 甘さでしっとりと濡れた桜色の唇を小さく開く。

「悲しいね」

 ガエリオは弾かれたように顔を上げた。紫色の目が大きく見開かれて、じわりと涙が浮かぶ。そして顔がくしゃりと歪められた。たくましい腕がわたしを掻き抱く。痛いほどにぎゅうっと抱き締められて、わたしは鼻の奥がつんとした。左手を大きな背中に回し、右手で頭を撫でる。

、お前が妹でなければよかったのに」

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