メンソレータム・キッス

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 逃げた先は競馬場だった。競馬場はいったいどこから来たんだろうと思うほどの人でごった返していて、狭い通路なんてぎゅうぎゅうと押されながら歩くのがやっとだ。汗とむわっとした呼吸の濃度がすごい。それから、不特定多数の人間がわたしにちらちらと向けてくる、なにか信じられない、見てはいけないものを見るような視線が痛い。わたしは自分が怯えているのがはっきりと分かった。落ち着かない。やっぱり、来ないほうがよかったかもしれない。平日の、それも真っ昼間に、花の女子大生が競馬場にいる光景はさぞかし奇妙だろう。少し考えれば、こんなふうに浮くことは予想できたはずだ。でもあいにくそういう余裕を持ち合わせてはいなかった。
 なかなか前に進めず、好奇の目からいっこうに解放される様子のない満員電車みたいな通路にますます嫌気がさしたとき、突然横からぐいっと引っ張られた。恐怖が心臓へ杭のように打ち込まれる。大げさなほど肩を震わせて腕をつかんでいる手を見た。それから、紫色のパーカーの袖口、肘のあたり、肩を目で辿って、ゆっくりと首筋を視界に入れ、顔を見た。
「トッティ?」
 肩の力がふっと抜けた。トッティは松野トド松くんといって、わたしが教育実習で二週間ほどアルバイトを休んでいる間に辞めてしまった元アルバイト仲間だ。今でもわたしとスタバァコォヒィーで一緒に働いているアイダとサチコによれば、トッティが最後に出勤していた日は悲惨だったらしい。なんでも、トッティとそのお兄さんたちはとんでもない六つ子だったそうだ。
「久しぶり。元気だった?」
 わたしがそう言うと、トッティは視線をうろうろとさ迷わせた。そして額に小さな汗をいっぱい浮かべ、顔を青くしたり赤くしたりする。変だなあと思っていると、少し低めの声がぼそっと聞こえた。
「……おれ、トド松じゃない」
「えっ」
 びっくりして目が大きくなる。それじゃあ、目の前にいるのは、噂のお兄さんなんだろうか。
「トド松はあっち」
 視線で示されたほうには同じ顔が五つ並んでいて、思わず前と横をまじまじと見比べてしまう。同じ家で、同じものを食べて飲んで、同じ時間を共有すると同じ顔になるのかななんてばかなことを考えるほど、みんな同じ顔をしている。六つの顔に気を取られていると、ぐいぐいと引っ張られた。
「あの、ちょっと」
「あんた、トロい。さっきから見てたけど全然前に進んでなかったよね」
 いらいらした声で呟かれた言葉に鈍器で頭を殴られた気がした。こんなところまで来てまごついている自分が恥ずかしかった。惨めな気分になって、腹が立ってきた。だからせいいっぱいの強がりで口を開く。
「ふうん。やさしいんだね」
「は?」
「だって、そのトロいやつをわざわざ引っ張りに来てくれたんでしょう」
 二十一歳にもなって子どもっぽい皮肉だ。わたしは自分にできる一番かわいい笑い方でにっこりとする。
「あなたみたいなひと、すきかもしれない」
 そう言えば、トッティと同じ顔はぼんっと赤く染まった。でも、怒りの色じゃなくて、多分、照れている色だった。わたしは予想外の反応に毒気を抜かれ、なんだか照れくさくなってしまった。おなかのあたりで、まろやかなコーンポタージュがふつふつと小さな泡をたてて煮えている感じがする。
「なんで照れるの」
「うる、さい。クソッ……」
「ふふ」
 自然と笑いがこぼれた。かわいいなあ。
「わたし、。あなたは?」
 にこにことして訊くと、蚊のなくような返事が聞こえた。
「松野一松」
「いちまつくん」
「うん」
「漢字は?」
「数字の一に、木の松」
「へえ、長男なんだ」
「ちがう。長男はおそ松兄さん。あの赤いパーカーの」
「そうなの」
「うん」
 小さな声の一松くんにつられて、わたしもだんだん声が小さくなっていった。
「青色のパーカーの人は?」
「あれはクソ松」
「すごい名前だね。みんな松ってついてるの?」
「うん。緑色のがチョロ松兄さんで黄色は十四松」
 そう言いながら一松くんが指を指す。
「ふふ」
 初対面の人間と二人で雑踏の中ひそひそ話をしていることが、不思議であたたく、おかしなことに思えた。くすくすと笑っているうちに観覧席へ吐き出される。景色がぐんっと広がり、青々とした芝生のまぶしさが目に飛び込んできた。すごい。本当に競馬場に来たんだという感動が指先にまでみなぎっていく。
「もう~、なにやってるんだよ。ナンパするなら俺も誘ってくれないとさ」
 おそ松くんがへへへと笑いながら近付いてきた。そのあとから四人がぞろぞろと出てくる。
「べつにナンパじゃないし」
 一松くんがばつの悪いような顔をした。どこからか哀愁の漂う音楽が聞こえ、キリッとした表情のクソ松くんがおそ松くんの前に出てくる。そしてジーンズのポケットからサングラスを取り出し、語り始めた。
「フッ。素直になれよ、マイブラザー。恋の歯車が回りだしてしまったんだろう? だが俺には分かってる。彼女はカラ松ガールだ。こんなにも騒がしい競馬場にたたずむ彼女は、とても小さく、とても寒がりで、泣き虫な女の子なのさ。ヘイ、カラ松ガール。たとえ自分が手にしている物全部をなくしたとしても、自分自身は残る。だから、自分をもっと信じるべきだぜ。孤独でいることを嘆いちゃいけない。それにもうひとりきりじゃない。俺があたためてあげよう」
「今春先だけど? ぜんっぜん寒くないよね。話は飛躍してるし。むしろお前が寒いよ、クソ松」
「童貞の中の童貞とはロマンスのひとつすら解りあえないようだ」
「お前も童貞だろ!」
「チョロシコスキーだもんな」
「便乗するな、テンションだけのガサツ人間!」
 童貞。ぽかんとして、わたしはおそ松くん、クソ松くん、チョロ松くんを見た。それに気がついたのか、言い合う三人の肩に十四松くんが腕を回す。
「ワンナウト!」
 おそ松くんが十四松くんによって青い空へ投げ飛ばされた。
「ツーアウト!」
「じゅうしまーつ!」
 クソ松くんも空に吸い込まれるように消えていく。
「ちょ、ちょっと待って」
「スリーアウトー! チェーンジ!」
 冷や汗をだらだらとかいているチョロ松くんも放り投げられた。あたかも野球ボールのように軽々と。そして残ったのはわたし、無表情の一松くん、どこを見ているか分からないみたいな目をして笑っている十四松くん、気まずそうなトッティだった。
「ごめんネクストバッターズボックス!」
「あ、はい」
 わたしはこくこくと頷いた。トッティが口を開く。
「えっと、久しぶり。兄さんたちが本当にごめんね、ちゃん」
「久しぶり。アイダとサチコから話は聞いてたけれど、すごいね」
「ああ……」
 トッティは遠い目をする。
「トッティ、慶応じゃなかったんだってね」
「う、ごめん」
 もじもじとして、トッティは謝った。
「ううん。いい大学に行っているから自分はいい男なんだって勘違いしてる頭がすっからかんのばかよりも、トッティとそのお兄さんたちのほうがずっとすてきだよ」
「けっこうズバッと言うね」
 トッティが苦笑いをこぼした。
「比較対象のせいで誉められてるのに誉められてる気がしない」
 一松くんもぼそぼそと言う。
「それにしても、ちゃんがこんなところに来るなんて意外だったな。競馬が好きなの?」
 眉をハの字にして、わたしは正直に打ち明けた。
「実ははじめて来たし、競馬も全然分からないの」
 わたしがここへ来た理由は、競馬に興じるためじゃない。ほんの少しの間でも重力を忘れたかったからだ。ここはわたしの日常じゃない。非日常。期待していた通り、まるで現実じゃないみたいな、どこか違う世界の感じがする。もちろん現実にはかわりないけれど。
 もうずいぶん長いこと、まぶたが重くて淋しい。頭のまん中も重い。胸のあたりだって重い。からだの全部が重くて、息をするのさえ億劫だ。苦しい。生きているのが流れ作業になったのはいつからだろう。朝がいやでいやでたまらなくなったのは? ごはんを食べていて、おいしいとか、楽しいとか、考えられなくなったのは。わたしは、自分の心からやわらかさやみずみずしさ、弾力などが失われ、どんどん萎びていくのを感じている。人間はだんだん古くなっていく生き物なのかもしれない。
「そうだ、近くのカフェに行かない? 僕、馬券買ってなくて。みんなの応援係なんだ」
「それなら応援しないといけないんじゃ」
「今日は誰も馬券買ってないし、こんなところで立ち話もなんだし、ほら、みんなの応援係だから。ちゃんの応援係でもあるんだよ。何でも聞かせて」
 トッティはきゅるんという効果音が似合う笑顔を浮かべた。
「あざとい」
 一松くんが呟いた。それからのっそりとした動きでわたしを見る。視線を右から左へ、左から右にさ迷わせて、また右から左へ動かし、小さく口を開いた。
さん、ねこ、すき?」
「うーん、犬のほうがすき」
「きらいじゃない」
 一松くんが訊いた。
「きらいじゃない」
 わたしは同じ言葉で返す。一松くんは黙ってしまった。わたしは首をかしげる。一松くんの顔がじわじわと赤くなっていく。
「おれ、これから餌やりに行くんだけど…………きらいじゃないなら、こない」
 カフェかねこか。トッティか一松くんか。カフェとねこならカフェだ。動物は、写真や映像、遠目で見るのはいいけれど、触れ合うなると別だ。くさいし、臭いは服につくし、汚れる。でもトッティと一松くんはちょっぴり迷った。結局、カフェとねことトッティと一松くんという統一性のない四つの選択肢から、一松くんを選んだ。
「行く。トッティ、ごめんね。カフェは今度誘ってもらえると嬉しいな」
「そっか、残念。また連絡するね」
「トド松、ぼくと一緒に行く?」
「なんで男二人でかわいいラテアートを飲まないといけないの、十四松兄さん」
 呆れたような顔をして、トッティはわたしたちに手を振った。ここでお別れらしい。わたしは一松くんと窮屈な通路へ体を向けた。ふと唇がぱさぱさしていることに気が付き、リップクリームを塗る。
「それ、持ってる」
 そう呟いて、一松くんがジャージのポケットから深緑のシンプルなパッケージのリップクリームを取り出した。
 同じリップクリームを塗っていたら、同じ唇の感触になるのかな。そんなことが頭をよぎった。

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