愛しのストライプ・ガールに告ぐ

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 雨が降っている。霧雨のようなやさしい降り方でなく、地上か海中か、あるいは大気中に何かとても憎んでいるものが存在がしていて、それを洗い流してやろう、きれいさっぱり消してしまおうといわんばかりの激しさで、窓ガラスを叩いている。うるさい。私は苛立ちを覚えた。
 こういう日は不思議だ。悪天候は外出しない正当な理由になる。誰に咎められることなく家でごろごろするのを許される。それなのに、なんだかずるをしている気分になって、心がずんと重たく、煩わしい。早朝に三分の一ほど開けてそのままのカーテンの隙間から、灰色の光が射し込んでいるのをぼんやりと見て、まぶたを閉じた。今日は休日にしよう。何人たりとも絶対不可侵の一日。司は今日も仕事で、昨日天気予報を見ながら不満そうにしていた。すずめさんはいつも通り寝ているだろう。真紀さんは何をしているかな。家森さんは――。忍びきれていない忍び足の音が聞こえてきて、意識が引き上げられる。ゆっくりとまばたきをしていると、ドアがノックされた。

「……はい」
「あ、起きてた」

 部屋の外にいるのは家森さんらしい。

「どうしましたか?」

 私は布団にくるまったまま訊いた。布団はストライプ柄だ。白地に、ピンクや黄緑など明るい色の縦線が細かく入っている。

「珍しくなかなか降りてこないから、具合が悪いんじゃないかって。……真紀さんが」

 壁掛け時計に目をやれば、午後一時過ぎだった。

「体調は問題ありません」
「なんだ、ただの寝坊?」

 ほっとしたような声色で言って、家森さんは続ける。

「それとも、すずめちゃんごっこ?」

 思わず眉間にしわが寄った。すずめさんごっこなんてしない。そんなことをしても虚しいだけだ。すずめさんと同じものを食べて、同じシャンプーを使って、頭から同じにおいをさせて、同じだけ睡眠をとっても、家森さんから思いを寄せられる、すずめみたいに小さな、かわいい女性になれない。遺伝子レベルで違うのだ。

「今日のお昼はおうどんだよ」

 家森さんが言った。ダイニングルームへ来るよう促しているのだろう。

「そうですか」
「ねぎがどっさり乗ったやつ」
「おいしそうですね」
「卵もつけるよ」
「月見ですか」
ちゃん」

 私はぐっと黙る。行間が読めなかったのでない。読んだ上で無視したのだ。今日のお昼はおうどんだよ、と言われた場合、ベストアンサーは、それじゃあ下に行きますね、だ。こっそりとため息をつく。

「ミスリード、しましたね」
「読み誤りまくりだよ。いつも僕の行間通訳なのにどうしちゃったの?」

 ドアの向こうから不満げな返事が聞こえた。家森さんはきっと唇を尖らせている。
 ?
「本日は悪天候につき、休みをいただいています」
「なにそれ、聞いてない」
「今はじめて言いました」
「困るよ。ホウレンソウ知らないの? 報告、連絡、相談。大事なんだよ、これ」

 家森さんの右手は、フレミングの右手の法則みたいになっている。なんとなくそんな気がした。報告と言いながら親指を立てて、連絡で人指し指を上げ、相談で中指を伸ばす姿を思い浮かべるのは簡単だ。

「知っています。無職の人に言われたくありません」
「知ってる上で言ってくれなかったの? ひどいな」
「どうも」
「ねぇ、休日出勤して」
「パワハラです」
「時間外手当て弾むから」

 すずめさんにちょっかいをかけているときみたいに、家森さんは粘った。私はうつ伏せで頬杖をつき、深呼吸をする。豪雨は家の外へ出なくてもいい理由になる。でも、自分の部屋の外へ顔を出さなくていい理由にはならない。そして、家森さんと会わない理由にもならない。家森さんは笑うとき、顔がくしゃっとなる。困ったときや不満のあるときは、迷子犬のような目をする。そういう表情を見て、私はお腹の底がぽこぽことするのを感じる。ぽこぽこというのは、液体状の何かがぽかぽかとあたたかくなって、ことことと煮えるくすぐったい感覚だ。尊い瞬間はしあわせにも似た出来事で、悲しくなるくらい美しい。

「おうどん、もう出来ていますか?」
「ううん、まだ。今から作るところ」
「それじゃあ、十五分後に作りはじめてください」

 ベッドからのっそりと這い出て、私は手ぐしで髪を整える。

「うん」

 家森さんはどこか嬉しそうに返事をし、鼻歌を歌い始めた。ウルトラソウルのメロディーがだんだん遠ざかっていく。電気毛布のコンセントを引き抜いて、私はまばたきを繰り返した。布団から這い出ると、冷気が全身を駆けめぐる。あまりの寒さにベッドへ戻った。ぬくもりにくるまりながら、昨日サイドテーブルに置いたフリースの上着に狙いを定めて腕を伸ばす。紺地に白のストライプ柄のそれをさっと取り、布団の中でもぞもぞと身体を動かして着る。続いてタンスに目標を定める。分厚い毛糸の靴下は一段めの左下の隅にしまったはずだ。ドアをちらりと見て目を閉じる。まぶたを開けることで気合いを入れ、布団から飛び出す。白いシャギーラグに足をつけ、小走りでタンスまで行き、いっさいの迷いもなく目的のものを取り出した。両足をもこもことした赤で包んで、ドアを開け、冷たい空気に首をすくめて洗面所へ急ぐ。
 えっ。
 頭がフリーズする。あと一段で階段を下り終えるというところで、解析と廊下の仕切りになっている左横の壁の終わりから腕がにゅっと飛び出てきた。足は止まらない。私は腕へ飛び込んだ。腕は私をしっかりと絡め取り、横へ引っ張る。かけられる力にただ身を任せていると、頬がふかふかとしたベストに当たった。そのまま右手で頭を固定されて、抱き込まれる。
 家森さんだ。
 誰と密着しているか分かった途端、身体が燃えるように熱くなる。心臓が急に走り出し、呼吸がうまくできない。落ち着け。相手は家森さんだ。あの、家森さん。女子大生に道を訊かれて、キスをしてしまう男性だ。落ち着こう。からあげ談義を思い出す。レモン。不可逆。それから行間案件。今、この状況のベストアンサーはなんだろう。口を開けたり閉じたりを何回も繰り返す。

「あ、の」

 やっとの思いで出した声は、ずいぶんと情けない響きがあった。浅く息をして、こぶしを握る。

「私、まだ顔を洗っていません」
「うん」

 頭の上で家森さんが頷く気配がした。

「歯も磨いていません」
「だからだよ」

 頭をぽんぽんと撫でられる。

「そういうちゃんが見たかった。画家ってもっと不規則な生活リズムだと思ってたのに、ちゃんは違うじゃない。寝る時間とか起きる時間とかは違うときがあっても、リビングで朝ごはんを食べる時間はいつも同じでしょ。しかも、着替えてお化粧もしてすぐ出かけられる格好。完璧な状態」

 それはこの別荘に家森さんがいるからだ。私は、家森さんの視界で、できるだけきれいでありたい。

「きっちりしてるちゃんといると、自分がだめな人に思える。ものすごくだらしない気がしてくる」

 私といなくても、家森さんは多分だめな人でものすごくだらしない。

「……家森さん、ちょっと」

 家森さんの腕を軽く叩く。

「なに」
「放してください」
「やだ。どっか行っちゃわないで」
「どこにも行きません」
「うそだ」
「嘘ではありません」
「それじゃあ、一生一緒にいてくれるの?」
「それ、は、考えます」

 口をもごもごとさせながら私は言った。家森さんとの間に静かに隙間ができる。勝手だけれど、惜しいなと思った。家森さんを見上げれば、ぱちんと視線が交差する。家森さんの目は今までに見たことのない色をしていた。家森さんがくしゃっと笑う。お腹の底がぽこぽことする。

「考えてくれるの? 嬉しいなあ」

 家森さんは言い、さざ波のきらめきを振り撒いた。私はぎゅうぎゅうと抱きすくめられる。

「あー、かわいい。未完成のちゃん、なんなの。僕をどうしたいの」

 それは私のセリフだと思った。家森さんが綿菓子みたいに甘くふわふわと笑う姿は、息が詰まりそうになるくらい、かわいい。家森さんはこんなふうに抱きしめて、私をどうしたいの。かわいいって何が? どこが? 誰が? すずめさんが好きなんじゃないの。どうして道を訊かれただけでキスをするの。わけが分からない。家森さんも、家森さんを好きな私も、家森さんを好きな理由も、さっぱりだ。はっきりとしていることは、ただひとつだけ。私はぽつりと呟く。

「いつまでも、このまま夜がこなければいいのに」

 夜になれば、私たちは別々の部屋へ行き、違うベットで眠る。今みたいにあたたかさを共有することなんてできっこない。淋しい闇に包まれて、私は家森さんを夢にみる。そして、目覚めたあと、落ち込むのだ。

「それは困るよ」

 家森さんが顔を顰めた。

「どうしてですか?」
「夜はウルトラソウルの時間だから」

 さらっと返ってきた言葉は呆れるもので、ため息が出る。家森さんの着ているトップスのストライプ柄をぼんやりと眺め、薄い胸板を押す。そこで、家森さんが想像以上に力を込めて私を抱きしめていることが分かった。びくともしない。離れるのが惜しくなって、口を開く。

「ボーダー柄はだめなのにストライプ柄は許せるなんて、家森さんは不思議ですね。どうしてですか?」

 家森さんの肩が跳ねた。奇妙な沈黙が流れる。気まずさに眉が寄る。家森さんをもう一度押し返そうとすると、首筋に顔をうずめられた。皮膚の感じる温度が突然変わる。身体がびくりとした。くすぐったい。恥ずかしい。

「ちょっと、今それ訊いちゃう?」

 吐息が肌を刺激する。

「んっ」

 甘い声を出してしまい、顔が燃えるように熱くなる。家森さんは全身を不自然に震わせた。

ちゃん。僕がいいっていうまで、目を閉じてて」

 私は頷き、まぶたを下ろした。心臓の音がうるさい。家森さんの腕から解放される。

「僕がストライプ柄を着るのは、僕の好きな人がストライプ柄を好きだからだよ!」
「えっ」

 驚いて思わず目を開くと、家森さんはバタバタと駆けていくところだった。

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