エーテルの略叙

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

  おとうさんとおかあさんにはなつやすみがありません。だから、みんなみたいにりょこうにいったりあそびにいったりできません。
 でも、ことしはかえちゃんがかえちゃんのおばあさんのおうちにつれていってくれました。かえちゃんのおばあさんのおうちはくろとりけんにあります。くろとりけんには、はじめていきました。くろとりけんにはさばくがありました。さばくにはきよにいちゃんがつれていってくれました。きよにちゃんはかえちゃんのいとこのおにいさんです。さばくにはらくださんがいました。わたしとかえちゃんはふたりでらくださんにのりました。すなのさかをのぼると、うみがみえました。あおくてひろくてきらきらしていました。がいこくみたいでした。
 かえちゃんとなら、どこにでもいけるきがしました。
 たくさんしゃしんをとりました。それから、めがちかちかしました。きゅうにうすぐらくなって、あとのことはよくおぼえていません。

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 プールサイドで五十音順に始まった自己紹介の最後を聞きながら、不思議に似ていると思う。背が高くて近寄りがたい感じでバッタが専門。そんなことを考えていたら眉をひそめて声を掛けられた。
「なんだ」
 思わずじ、と見てしまっていたらしい。慌てて笑顔を浮かべる。
「よろしくね」
 ひらりと手を振れば予想外に快活な笑みが降ってきた。
「おう、よろしくな」
 新入部員たちはストレッチをしたあとフリーと専門を泳ぐように指示を受けて、規則的な笛の音と共に続々と初夏の揺らめく青に飛び込んでいく。私はそれぞれとクリップボードに挟んだ部員名簿を照らし合わせながら水着やキャップ、ゴーグルの色だったり、雰囲気や泳ぎ方の特徴だったりを書き加える。書き込みが増えてきたあたりで鮮烈な泳ぎが目に入った。息を飲むようなバッタだった。すごい。ストロークがなめらかに力強く水しぶきを生み出す。水面を押し出すようにして体がぐんぐん進んでいく。水は飛び散る度に煌めいて、無色透明なのに鮮やかに光って見えた。眩しさから目が離せなくてどきどきした。羨ましかった。
 もう水の中で幼なじみと一緒にいられないことは、泳げば泳ぐほど身にしみた。私たちの間には性差だけでは理由が付けられないほどタイムの開きが出来るようになっていた。それでも、隣のレーンの遠ざかっていく水をかき分ける音を追いかける以外どうすればいいか分からなかった。置いていかないで。決して言うことはなかったけれど心の中ですがって泣いた。自分の物であるはずの体を正しく使いこなせていない感覚が気持ち悪くて許せなくて、何よりも悔しくてたまらなかった。速く泳ぐために専門をフリーに変えてみても結果は駄目だった。事実はいつも本当すぎて嫌だ。いつまでも自分の価値も分からないような、無邪気に信じられる子どものままではいられない。十で神童、十五で天才、二十歳過ぎればただの人という。でも十だろうが十五だろうが私は一生ただの人なんだろう。泳いでも泳いでもどうにもらならずに打ちのめされるばかりで、そんな私に彼は、思い上がんな、と言った。その通りだった。私たちはどんな時もずっと一緒でその延長で泳ぐ私と、自分のためにしか泳げないと言う彼では水の性質すら違う。
 間違いだった。そもそも一人で泳げない人は誰とだって泳げないんじゃないかな。私は私だけの自分専用の水泳を見つけるべきだった。
 所々剥げたストップウォッチを握る。練習はメニュウ表通りに進んでいる。強豪校という感じの内容だ。
「なあ」
 背後から声を掛けられて肩が跳ねる。右肩越しに山崎くんが見えた。
「悪い、驚かせたな」
「大丈夫。気にしないで」
 私は首を横に振る。
「タイムどうだった」
「ええと、山崎くんはね」
 言い、クリップボードの紙をめくって掲げて見せる。
「こんな感じ」
「ありがとな」
 山崎くんは文字を追いかけるように左から右へ、右から左へ目を動かす。それから少し考え込むような素振りをして首をかしげた。
「なんで泳がねえんだ?」
「え?」
 私の心に波紋が広がる。
「お前泳げるよな。メモを見たら分かる」
 泳げるけれど。正解を探すように言葉を選ぶ。
「泳げることと、勝負が出来るかは、違うから」
「同じだろ」
 淡々とした口調だった。
 言葉にならない何かを飲み込む。こういう時いつも何かを汲み取って口を開く幼なじみは、これから三年間、もしかしたらもっと長い間隣にいない。不完全な私は閉じた口を開く。
「……山崎くんは、どうして泳ぐの」
「俺は――」
 四十五度くらい見上げて話す横顔にデジャビュを覚える。記憶の水底がちらちら光る。いつかの面影が微笑んでいる。
 十六回目の夏、泳がない初めての夏、いっそのこと誰かのためだけに全部賭けてみても良いかもしれない。泳ぎたい人が思い通りに泳げますように。

**

「腹減った」
「駄菓子カツとコーラ味のグミなら持ってるよ」
「相変わらず流石だな」
 ふふ、と笑って言う。
「エースがすぐに腹減ったって言うから」
「エースが買い食いしてたら、マネージャーはしょっちゅうつまみ食いしてきたよな」
 からかうように目を覗き込まれてふいと目を逸らす。
「その手離せよ! 金城!」
 はっとして進行方向を見ると夏也さんが大股で歩いていく所だった。それを私と山崎くんで追いかける。夏也さんの向こうには郁弥くんと日和くん、それからかえちゃんが居た。
「高校までの俺とはちげーの。さすがの郁弥クンでももう勝てねえだろ」
 かえちゃんは言った。
「お前、俺の弟傷付けてんじゃねえよ」
 言いながら夏也さんが郁弥くんの横に並ぶ。
「兄貴」
「ったく失礼な奴だな」
「全くだ」
 言って山崎くんも足を止めた。三人が並ぶと道幅が埋まる。私は山崎くんの後ろで立ち止まった。
「郁弥の兄貴、それに鯨津にいた山崎宗介か。あと……」
 帽子を脱いで山崎くんの背中から顔を出す。

 かえちゃんは私から視線を外すと喉を鳴らすように笑って口を開く。
「ホント仲間が好きだな」
 林檎が木から落ちるようにして私は目の前の壁を押し退けた。前に出て一直線に視線を合わせる。綺麗なもの、楽しいこと、嫌なこと、忘れたいこと、きっと色々な景色が薄くて透明な記憶の積層になって蜂蜜色の角膜を覆っている。私は私で折り重なったフィルムに生かされている。かえちゃんは勝ち気だけれど強いわけではない。繊細な所がある。不器用に真っ直ぐで愛想は良くなくても本当のことを言う。知っているから、勝手に謝ることも勝手に庇うことも正しくないと思った。
「かえちゃん」
 帰ろう、と続けるよりも早く、手元の帽子が白い大きな手にさらわれて頭に深く被せられる。それから流れるように手首を掴まれて引き寄せられた。塩素の匂いがする。
「そろそろ帰る。は俺が送る。良いな」
「うん」
 今はただ一緒にいることでかえちゃんが少しでも淋しくなくなって欲しい。
「また明日」
 振り向いて言った。私たちは歩き出す。
「明日の泳ぎ見てろ。お前ら全員黙らせてやる」

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