1.34の者たち

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

「いただきます」
 一人手を合わせてストロベリーオ・レの紙パックにストローをさす。お皿の上にはとんかつとキャベツのクッションが絶妙なバランスで盛り付けられている。私はお手本のようなきつね色に揚げられた衣の表面に歯を立てた。サクサクとした食感の中から温かい肉汁が出てきて力の湧く味がする。キャベツ、白いご飯、お味噌汁の順に口に運んでまたとんかつに箸を伸ばす。
 かえちゃんに付いて回って色々な場所に連れて行ってもらっていた小さな女の子は、私の中で静かに寝息を立てている。大人、といっても両親だけれど、その事情で引っ越して来た東京は何を見ても新鮮で行く場所全てが知らない場所だった。見たことのない世界が目まぐるしく現れた。その一つひとつがとても小さなスケールでも緊張と戸惑いは尽きなくて、初めてのことに飛び込む時はいつもかえちゃんの顔が頭に浮かんだ。今思えば、かえちゃんという重力は物理的な不在によって存在を濃くして、一人で進んでいるつもりの私のそばでこっそりと奮い立たせ続けてくれていた。
 ふと懐かしい顔を見付ける。トレーを持って選ぶように席を見ている。
「東さん」
 東さんは立ち止まって私を見た。つかつかと歩いて来て怪訝そうに口を開く。
「誰だ」
「きよ兄ちゃんの従弟の金城楓の幼なじみです」
「ああ、あの」
 頷いて向かいの席に腰を下ろす。
「お久しぶりです」
「久しぶりだな。霜学だったのか」
 言ってきつねうどんにスマホを向ける。シャッター音が鳴った。
「はい。東さんはどうして霜学に?」
「俺のことは気にするな。……二人揃って上京か」
 薄く笑うと、ずずと音を立てて出汁を飲む。
「私は高校からでかえちゃんは春からです」
「ほう? 高校はどこだ」
「鯨津です」
「専門は」
 泳ぐことが前提の質問に私は咄嗟に応えてしまう。
「フリー……」
「専門まで仲の良いこった」
 その声色は呆れているようにも安心しているようにも聞こえた。東さんの中の私たちはきっとうんと昔のまま時間を止めている。私は小さい頃、子どもは永遠に子どものような気がしていたけれどそれは違う。
「でも、私たちが同じ時に同じ専門を泳いでたことってないんですよ。私が泳いでたのは中学までだしその頃かえちゃんはバッタだったし、私の専門は元々ブレです」
 あの時は感覚で泳いでいたから分からなかったけれど、私のブレは伸びのびと大きく腕を使ってたっぷり水をかいて蹴る、少ないストロークとキックで推進力に運ばれるようにして進むブレだった。速さを出すことよりも長く泳ぐことに適した泳ぎで、速く泳ごうとすればするほどフォームもリズムもどんどん崩れて壊れるしかなかった。
「なあ、この三年間何してた」
 確かめるように訊かれた。
「マネージャーです」
 応えて私はキャベツを口に運ぶ。
「ったく道理で見ないワケだ」
 まるでずっと探していたような言い方だった。
「なんで泳がなくなった」
「泳げることと勝負が出来るかは違うので」
 東さんは目を細める。
「お前は正しいよ」
 言い、続ける。
「それで大学でもマネージャーか」
「部活は見学に行っただけです。一人の選手に全力になりたくて。それに今は勉強したいんです」
 肝心な時に無力で、アイスバッグとアイシングスプレーとサポーターを握り締めてひたすら走るだけだった。
 あの春から心の奥が轟々と燃えている。
「今度は役に立ちたい」
「……そうか」
 東さんはそれきり黙って食事を進める。
 私は手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
 男の子の三人組が私の右横の通路を通り過ぎた。赤い髪の男の子が東さんの後ろの席につく。その向かいの席にハの字眉毛の男の子が座る。ハの字眉毛の男の子の向かって左の席、東さんの右肩越しに見える顔に声を上げそうになった。七瀬くんだ。岩鳶の、フリーの、七瀬遙。
 七瀬くんたちは郁弥くんの話をし始める。
 中一の夏の水泳合宿。来年の夏。フリー。流れ星。
 …………………………。
 約束は私にとって願い事と似ている。
「郁弥は何願ったんだろう」
 東さんが口を開く。
「かつ丼が食いたい」
「えっ?」
「だがここの学食のかつ丼は駄目だ」
「鯖は旨い」
 七瀬くんが言った。
「俺は鯖は嫌いなんだよ」
 大袈裟な身振りをして東さんが振り向く。
「よう、また会ったな」
「この前の。それと……?」
 ハの字眉毛の男の子が首をかしげた。
「せっかくの再会だ。記念に一つ教えてやろう」
 言いながら東さんはトレーを持って立ち上がる。
「この学食のおすすめは、きつねうどん」
 一瞬間が生まれる。
「えっ!? ええっとお」
「フン、邪魔したな。またな、
「はい……」
 トレーに視線を移すと空のお皿と一緒にいつの間にか名刺が置かれている。名刺はくたびれて角が少し折れていて、名前と連絡先だけが印刷されている。
 季節は偉大に進行形だ。春は始まりも終わりも、膨大な思い出も、そこにどうしたって纏わり付く厄介な心まで勝手に背負わされる。それでもそんなことは取るに足らない問題のように絶対的に夏は来る。正解なんて分からないまま、選んだコースが正しくても間違っていても平等に未来は巡る。
 私はスマホのロックを解除して連絡先アプリに十一桁の数字を追加した。ショートメッセージの新規作成画面を開く。何かが始まる予感がする。
「何者?」
「学生には見えないけど」
「なあ、あいつと知り合いだよな? なんなんだ?」
 赤い髪の男の子に応える。
「幼なじみの従兄の幼なじみ」
 思い出は発酵している。大切なことは切実になり過ぎて言い尽くせない。

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