近似値のあわいに

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 日時と場所、それから水着を持って来いというメッセージに、どうしてですか、と返信したら、来れば分かる、とだけ返信された。ぱちぱちと瞬きをしてもう一度見る。何度も見る。書いてあることはシンプルで行間が難解だった。スマホの画面を眺めていても、東さんの意図は一向に答えとして浮かび上がってこない。キーボードを開いて親指を滑らせる。打って消して打ち直してやっぱり消す。言葉に出来ないものが胸の奥でぐるぐると回っている。思考回路を強制終了させるように電源ボタンを押して目を閉じた。
 考えたって分からない。そもそもこれはただ季節の変わり目の霞で思い煩う必要なんてなくて、私が勝手に先回りをして架空の心配事をしているのかもしれない。
 スマホの画面を明るくする。メッセージアプリのアイコンを選んで、トークリストの一番上に並んでいるかえちゃんとのトークルームを開いた。トーク画面の背景はかえちゃんが送ってきた野良猫の写真が設定してあって、最後の吹き出しには音声通話が終了しましたと表示されている。受話器のマークをタップすれば呼び出し音が鳴る。一回目、二回目。
『もしもし』
「かえちゃん?」
『ん。何』
「あのね」
 切り出したら、これまでのことが何重にも重なって寄せてくる波のように言葉になっていく。
 …………………………。
『なんでそんなことになってんだよ』
 かえちゃんは言い、続ける。
『まさかまた競泳するつもり』
 絞り出すような低い声だった。
「ううん」
『なら良いけど。どうしたいわけ』
 静かに訊かれて私は直感する。答えはきっと水の中にある。
「それを確かめに泳ぎに行きたい」
さあ』
 言ったきり、かえちゃんは黙り込んでしまう。
 私も何も言わなかった。分かってもらいたいわけでも背中を押して欲しいわけでもなかった。ただかえちゃんが知っていてくれる。それで充分だ。じっとスピーカーの向こうに耳を澄ませる。
『あー……好きにすれば』
「ありがとう」
『別に何もしてねーし』
 本当になんでもないように言われて嬉しくなる。
「ふふ」
『んだよ』
 かえちゃんの優しさは特別だ。優しくしようと努めて作られたものじゃなくて、無意識で出来ている。金城楓という人は根本的に優しい。それもずっと昔から変わらずに過不足なく。思い出を固めて一つの結晶に出来たらとびきり綺麗な色になる景色を私は知っている。どこにも行けなくても黙って我慢するしかなかった私を、小さなヒーローが連れ出して見せてくれた、一面の砂と果てしない海だ。それはほんの一瞬で目に焼き付いて、私はきっと一生忘れない。
「かえちゃんが居てくれて良かった!」
『……あっそ』

**

 駅を出て、スマホの頭を方位磁針のようにあちらこちらの方角に向けてやっと歩き始める。地図アプリの通りに道を進んで目的地に着いた。帽子のつばを少し上げて建物を見上げる。それは蒲鉾を二本L字型に組み合わせたような形のガラス張りの屋根が特徴だった。私は入り口に向かう。東さんを探していると予想外の姿を見付けた。
「七瀬くん?」
 ぽつりと呟いた。
「誰だ?」
 訊かれて帽子を脱ぐ。背中の向こうから風が吹き上げてきてワンピースが帆のように膨らんだ。一歩踏み出す。
「霜学の……」
「うん。。フリーの七瀬遙くんだよね」
 近付いて正面から青い目を覗き込んだ。海と似ている。深くて澄んでいて吸い込まれそうだ。ふっと懐かしさを覚える。海よりも似ているものを思い出す。
「ああ。ってもしかして宗介の――」
 七瀬くんが言いかけたところで声が被る。
「おう、揃ってるな」
 私は振り返った。
「東さん」
 東さんは学食で会った日と同じグレイのトレンチコートにチャコールグレイのキーネックのカットソーと黒いパンツで、アウターのポケットに両手を入れて立っている。
「話は後だ。二人共準備しろー」
 言いながらロッカールームの方向を顎で指した。
 私と七瀬くんは顔を見合わせて口を開く。はい、という返事が重なった。

**

 体がまだ半分泳いでいるような感覚で歩く。
 水面に日差しが降り注いでいた。光は反射したり屈折したりしてプールの底に網目模様を作り出して、不規則な曲線が揺らめきながら輝いていた。その上で両腕を揃えて進行方向に伸ばした。水を掴んで腕全体でたっぷりとかくと、銀の細かい泡の粒が無数に生まれて一斉に舞い上がった。それからハイエルボー、ハイエルボーからリカバリー、リカバリーからグライドに繋いだ。肘と膝を真っ直ぐ伸ばして透き通る青を滑りながら、指先から水に溶けていきそうだった。
 ふわふわとしている足元を自動車のヘッドライトが照らしてはすれ違っていく。ポケットの中でスマホが長めに震えた。着信画面を確かめると何度も見た名前が光っている。
「もしもし」
『ん。……、まだ外に居んの』
「うん」
『今どこ』
 私はプールの最寄り駅の名前を応える。
『まだそんな所かよ。何時まで泳いでんだ』
「練習は普通に終わったよ」
 練習といっても私のではなくて七瀬くんので、メニュウはコンメの特訓だった。七瀬くんは郁弥くんと泳ぐために大学選手権でコンメにエントリーする。そこで東さんにコーチを頼んだ。東さんは七瀬くんが面白い選手だからということでトレーナー志望の私に声を掛けた。私まで泳がせた理由は、気まぐれ、の一言ではぐらかされている。
『じゃ、なんで』
 言ってかえちゃんはすぐに続ける。
『やっぱ良い。迎えに行くからその時聞く』
「大丈夫。一人で帰れるよ」
 踏切の警報器が鳴り出して赤いランプが点滅する。私は立ち止まった。下りた遮断機の向こうを電車が走行音を轟かせながら通り抜けていく。夜の風がすっかり乾いた髪を乱暴にかき混ぜた。塩素が香る。鯖の移り香が強まる。風が止んで遮断棒がアンテナのように空を指す。手櫛で視界を整えると、黄色と黒の繰り返しの先に青白い星が見えた。あれは多分スピカだ。
『……家着いたら折り返せよ』
 渋々という了解だった。
「うん」
 頷いて私は歩き出す。息継ぎをするように息を吸って線路を越えていく。未来のことは分からなくても、進めばきっと誰かが待っている。

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