アスパラ少年

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.


 部長の姿は相変わらずテニスコートにない。部長の穴を埋めようといかつい顔をより厳しくしている真田も、今日は委員会があるから遅れて参加するらしい。真田と同じ風紀委員会の柳生も然り。
 しかし三人がいなくても、いつものようにジャグの麦茶はなくなる。あっという間もなく。わたしはそれを見越して新しい麦茶を作る。この二年と数ヵ月でわたしもすっかりマネージャーが板についた。
 十分休憩の少し前四つあるジャグそれぞれの蓋を開けて中を覗くと、予想通りすべてあと六分の一くらいになっていた。わたしは冷水機のある部室前へ走る。用意していた一リットルペットボトルをガラガラ――段ボールを積んだりする台車と、おばあさんが使っている手押し車を足して二で割ったような見た目だ――に乗せた。そしてまたテニスコートに戻る。
 そろそろ休憩のはず。それまでにお茶を補充しておかないと。
 四つめのジャグに麦茶を補充しているところで、柳の声が響いた。
「十分休憩!」
 今日の空は広い。どこまでも青くて、すかっとしている。


 柳の声により、みんなが吸い寄せられるようにジャグに集まってきた。コップに麦茶を注ぐなり、コップまで飲み干してしまいそうな勢いで喉を動かす。
 特に赤也は、誰よりもがぶがぶという音が似合う飲み方をする。そして叫ぶ。
「はーっ、生き返る~! うまーっ!」
 こんなふうにいつも。
 赤也の隣にいるのは柳だ。柳は赤也と違って、静かにコップを傾ける。
「柳」
「ああ」
 わたしはウェットティッシュを差し出した。柳が手を拭き終わるのを見計らって、塩の小瓶も出す。柳は水分補給したあと、熱中症対策に塩を舐めるのだ。
「はい」
「ありがとう」
 これもいつものこと。この二年間と数ヵ月、わたしたちはずっとこうしてきた。
「なあ」
 わたしと柳を見比べながら、丸井が口を開いた。
「お前たち、ほんとに付き合ってねえの?」
「当たり前でしょ」
 わたしはまっすぐに応えた。
「ほんとかよい」
「ほんと。ね?」
 同意を得るように、わたしはちらりと柳を見る。柳は、これでもかというくらい開眼していた。赤也はなんだかそわそわしている。
「柳?」
「……ああ、なんでもない。丸井、何度もいっているが俺たちは付き合っていない」
 柳は言った。
「そうそ。部長と真田がいないからって、こういう話をするのはやめてよね」
 わたしも言い、大きな声で続ける。
「たるんどる!」
 丸井の肩が跳ねる。
「うわっ、びびらせんなよい!」
「あはは」
 わたしは笑った。
 すると突然、赤也が真田の真似をしたわたし以上に大きな声を出す。
「あの、先輩、英語教えてください!」
 それに驚いたのか、柳がまた開眼する。
「赤也~、びっくりさせんなよい」
 丸井はまた肩をびくつかせた。
 赤也は成績がすこぶる酷い。特に英語が苦手で、五段階評価の通知表にいつもアヒル――2のこと。アヒルってなに? とはてなを浮かべるわたしに、えっ、先輩知らないんっスか~、と言って赤也が自慢気に教えてくれた。そして柳に、威張ることではないぞ、とたしなめられていた――がいるのは当たり前。しょっちゅう、俺はナンバーワンになる! と言っているけれど、部長に勝てた試しはまだなく、テニス部で赤也が一番になれていることといえば、成績の悪さと髪のワカメ加減くらいだ。
「なんでわたし?」
 わたしは訊いた。
 そんな赤也の勉強のできなささは、部内のみんなが知っている。そしてそれを見かねた柳が、テスト期間が近づくと赤也の面倒をみている。
「えーっと、そのー、あ、俺気づいたんっス。柳先輩の説明は頭よすぎて逆にわけ分かんないって」
 赤也は言い、続ける。
「だから、別の人に教えてもらおうと思ったんスよ。でも幸村部長は無理だし、真田副部長はいやだし、柳生先輩はもの覚えの悪い人が苦手らしくて、俺バカだからちょっとなあって」
「バカだっていう自覚あったのかよい」
 さも驚いたというように丸井が言った。
「丸井先輩ひどいっス! こんなんだから丸井先輩には頼まないんっスよ!」
 ぷんすかという効果音が似合う言い方で赤也は応える。
「ジャッカルは?」
 わたしは訊いた。ジャッカルはブラジル人のハーフで国際的だし、得意教科は英語だ。面倒見もいいから、英語を教わるにはうってつけだと思う。
「ジャッカル先輩、は、一緒にいるとハゲが移りそうだからパスっス」
「剃ってんだよ!」
 すかさずジャッカルが言い返した。
「んで、仁王先輩は絶対まじめに教えてくれないっスよね?」
「プリッ」
「それは分かる」
「ピヨッ」
 うん? ということは――。
「時間だ。いこう」
 柳の声に思考を遮られる。
「はーい。んじゃ先輩、約束っスよ!」
 そう言って赤也はニカッと笑い、右手をひらひらさせて練習に戻っていった。
 え、決定事項なの? とか、今の流れだと、わたしは消去法で選ばれたってこと? とか、ちょっと赤也! とかいろいろ言いたいことはある。でも今は口にできない。赤也もみんなもコートに立ってしまっている。練習中、私語は厳禁だ。


「で、テスト範囲はどこなの?」
 結局わたしは赤也の勢いに折れた。しぶしぶではあったものの、一緒に図書館の自習コーナーに来ている。テストが近いから空席はないかもしれないと予想していたけれど、ついてない――赤也曰くラッキーな――ことに席があり、こうして二人仲良く肩を並べている。さっさと帰るつもりで、席がなかったら帰るからね、と言ったわたしに、赤也は、席がないならしょうがないッス、と応えていたのに。
「今はここやってるっス」
 赤也は教科書を開いて言った。
「んで、問題集はこのへん」
「オッケー。……じゃあこのユニットとー、その前、その前の前の会話文と単語は丸暗記ね」
「えっ」
 赤也が目を丸くする。
「英語は暗記さえすればけっこう解けるよ」
「えー、マジっスか~?」
「マジマジ。わたしいっつも丸暗記してるよ。それで八十後半はだいたい取れる」
 わたしは言った。赤也が口を開く。
「九十後半じゃないんスか?」
「柳と一緒にしないでよ。わたしはよくて九十前半」
 わたしは応えた。
 すると赤也がぶすっとした顔になる。なんだか不機嫌そうだ。眉間にしわを寄せて、唇を尖らせている。
「俺べつに、柳先輩なんて言ってないっス」
 と言って赤也は中指と薬指でシャーペンをはさみ、親指をストッパーのようにして持った。くるくるとペン回し――フェイトソニックという技らしい――をはじめる。そして、ややふてくされたようすで言った。
先輩は、柳先輩ばっかりっスね」


 しまった、と思った。ほぼ無意識に。そしてすぐ、どういうこと? と疑問符が浮かんだ。
「赤也――」
 この先は声にならなかった。わたしの携帯電話が歌い出したのだ。授業中切っていた電源を部活後つけてから、マナーモードにするのを忘れていた。慌てて電源ボタンを押す。着信だった。相手は確認していない。すみませんと周りを伺う。たくさんの迷惑そうな視線がわたしと桜色の携帯電話に集まっていた。ああ、やってしまった。赤也まで申し訳なさそうな、ばつの悪い顔をしている。
「ごめん。えっと、勉強しよっか」
 わたしは小声で言った。このなんともいえない空気を変えたかった。それに、柳じゃなくてわたしが教えたから点数が下がったなんてことにはしたくない。そう思ってはっとする。わたしは柳ばっかり。悶々とするわたしに、静かになった携帯電話を見ながら赤也が口を開く。
「電話っスか」
「うん」
「柳先輩から?」
 また柳。
「分かんない。急いで切ったから見てないの」
 この状況を作り出した要因――携帯電話――は、わたしが立海に入学するとき買ってもらったものだ。少し古いタイプでサブディスプレイはついていない。だから誰からの電話かを知るには本体を開いて画面を見る必要がある。
「そっスか」
「うん」
 でもきっと柳だと思う。わたしは柳ばっかり。
「……電話、かけ直してきてもいいっスよ。柳先輩かもしれないし」
 赤也は釈然としない表情で言った。
「多分そうだけど」
 こんな顔でいいと言われてもその通りにすることはできない。
「っていうか、柳ばっかりなのは赤也もじゃん。よく一緒にいるし、わたし今柳なんて言ってないよ」
 赤也はわたしを柳ばっかりだと言ったけれど、わたしからすれば赤也だってそうだ。柳の前にはいつも、必ずといっていいほど赤也がいる。柳と話していると赤也とも喋ることになる。
「そりゃ、だって」
 と応えて赤也は言い淀む。
「柳先輩の隣には、先輩がいるじゃないっスか」

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