恋するチューリップ

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 夢の中のわたしは、遠い路地裏で、懐かしいような淋しい目をしていた。

 眠りから覚めたあとはいつも水だけで顔を洗っている。わたしの肌はきめが細かくて、たくさんの女の人がするように石鹸や洗顔フォームを使ってしまうと肌が乾燥してしまうのだ。だから保湿にはかなりこだわっている。ていねいに乳液を馴染ませ、BBクリームをうっすらと塗り、眉を描き足し、コーラルピンクの口紅をひくと、少女の顔が大人びてくっきりと浮かび上がった。こういうふうに鏡のまえで化粧をしていると、着飾ることが、自分の楽しみになったことにほっとする。誰か分からない不特定多数の人のためにするメイクアップは、わたしに数年前のことを思い出させる。食べていくため、売りたくもない媚を全方位に撒き散らしていたあの頃。言いようのないみじめな気分を振り払うよう、きつく目を瞑る。
 化粧をすると背筋がしゃきっと伸びるのは、化粧が儀式で、文化だからなのかもしれない。姐さんが、化粧はもともと魔よけで始まったものなんだと教えてくれた。遥か昔の人が魔物を恐れて、それを鎮めるために考えた知恵らしい。

 ブリッジへ行くと、名瀬がわたしを待っていた。

「名瀬、おはよう」
「おはよう、

 名瀬はわたしの額に唇を落とす。わたしも名瀬の頬にキスをする。

「行くか」
「うん」

 今日は、名瀬が鉄華団とクーデリアさんをマクマードさんに引き合わせる。わたしはそれに付いていく。どうして、姐さんでも、アジーでも、ラフタでも、エーコでもなく、わたしが行くのかというと名瀬の気遣いが理由だ。革命の乙女だって一人の女の子だ。それも温室育ちの。メイドと一緒とはいえ、男所帯の鉄華団では戸惑うこともあるだろう。慣れない戦闘できっと疲れも溜まっている。だからマクマードさんと話をしたあと、名瀬はガス抜きにモールで買い物をさせてあげるつもりらしい。とはいえ、異性に囲まれながら買い物をするというのは気が引けるかもしれない。そこで、わたしの出番だ。わたしはタービンズでクーデリアさんと一番年が近い。

 でも、ひとつだけ不安があった。三日月・オーガスだ。わたしたちは幼なじみだ。ううん、幼なじみというよりも、もっと距離が近くて、でも、なんだかよく分からない、一緒にいないとだめな存在だった。

「ねえ、やっぱりミカも来る?」
「来るぞ」
「そっかあ」

 胸のあたりがずんと重くなった気がした。

「そんな顔するなって」

 苦笑して、名瀬が頭をぽんぽんと撫でてくる。

「うーん、うん」
「返事と表情が一致してないぞ」
「ごめん」

 名瀬は眉をハの字にした。

「怖いか?」
「うん。だって、もう、ミカと一緒にいたときみたいにきれいなわたしじゃない」

 幻滅されたらどうしよう。怖い。ミカに嫌われるのが、怖くて怖くてたまらない。

「ほう? それじゃあ俺とは汚れた状態でいるってことか?」
「それは」
「違うよな」
「名瀬」
は今が一番きれいだ」

 にかっと笑って、名瀬がわたしの肩を抱いた。その腕の温かさに泣きそうになる。また、名瀬に救われた。わたしは、五年前、火星で人さらいに遭って花街へ売られた。花街での暮らしは、とても人間の生活と言えるものじゃなかった。名瀬が、そういう、海よりももっと暗くて深い底から引っ張り上げてくれるまで、毎日、絶望で首を絞められているような気持ちで、息もできない黒い圧迫に押し潰されそうだった。

「手、繋いでもいい?」
「もちろん」

 わたしと名瀬の指が絡み合う。それでようやく安心できた。気持ちに比例して足取りが軽くなる。

「ありがとう」
「はは、礼はキスでいいぜ」
「もう」
「他の男のを出されるのはおもしろくないもんだ。知ってるか? 嫉妬っていうのは、自分で生まれて自分で育つ化け物なんだとよ」
「ふうん。初めて聞いた」

  タービンズはチューリップ畑みたいなところだと思う。 わたしたちクルーがチューリップで、名瀬が太陽。畑の隅から隅まで埋め尽くしているチューリップは色とりどりだ。一重咲きとか、八重咲きとか、フリンジ咲きとか、パーロット咲きとか、ユリ咲きとか、形もさまざまで、一輪として同じものはない。 ばらばらのチューリップが不規則にひしめき合っている様子は、なんだかごちゃごちゃして汚く見えそうなものだけれど、不思議とそんなふうになっていなくて、むしろ、きれいだ。季節はいつも春で、暑くもなく寒くもなく、心地よい風がそよそよと吹いている。青空は澄みきっていて、太陽のやさしい光が降り注ぎ、その光を身体いっぱいに受けたチューリップは、花びらの朝露を星のようにきらきらと輝かせている。

「……ほら、あいつらだ」

 わたしと名瀬は、鉄華団とクーデリアさんに合流した。

「待たせたか?」

 名瀬が訊いた。

「いえ……よろしく頼んます」

 オルガくんが応えた。そして、わたしと名瀬の繋がれた手をちらりと見たかと思うと、ミカに視線を移す。ミカはこれでもかというくらい目を大きくし、わたしたちの手を凝視していた。ミカの無表情がたちまち不機嫌の色に染まっていく。わたしは居心地が悪くなり、名瀬の背中に隠れた。それでも、視線は痛いほど伝わってくる。逃げられないことを悟って、わたしはおずおずと顔を出した。

「おいおい、そんなに睨むなよ。が怖がるだろ」

 名瀬が肩をすくめる。それはミカの気分をより一層害したようだった。ミカは眉間にぐっと皺を寄せている。

「あんた、の何」
「そうだな。まあ、こういう関係だ」

 名瀬はぞっとするほど低い声を掛けられたというのに飄々とした様子で、白いスーツのポケットから銀色のリボンでラッピングされた箱を取り出した。ミカへ見せつけるみたいに顔の横で軽く振ってみせて、わたしに差し出す。わたしは受け取り、リボンをほどいた。包装紙を破ってしまわないように気を付けながら、包みを開けていく。

「これって」

 思わず呟いて、名瀬を見る。箱から出てきたのはリングケースだった。名瀬は穏やかに笑い、目で開けるよう促す。

「名瀬、本当にありがとう」

 嬉しくて、わたしは目の奥が熱くなった。どんな指輪が入っているんだろう。期待がむくむくと膨らんでいく。胸の高鳴りを感じながら、リングケースを開けた。

「え?」

 空っぽだ。もう一度見る。何度も見る。蓋を閉めて、また開けてみた。でも、やっぱり何も入ってない。

「中身がないんだけれど」
「お前は若いからな。指輪はまだ早い。これは予約みたいなもんさ。中身はもう少し大人になってから贈る」
「何それ」

 わたしは口をへの字に曲げた。さっきまでの喜びを返してほしい。

「名瀬のバーカ」
「上等だ」

 鼻先に唇が落とされる。むっとしてそっぽを向くと、ミカが見えた。ミカはオルガくんたちが必死に抑えていて、なんだか、知らない化け物みたいだった。憎くて仕方がないというようにギラギラと目を光らせている。視線で人を殺せそうだ。慌てて目をそらして、わたしは名瀬を引っ張る。

「バ、カバカバカ。名瀬なんて知らない。早くマクマードさんのところに行こう」

 ミカを見るのが怖くて、ただ前に足を動かした。屋敷の門がぐんぐんと近付いてくる。そして、わたしは門の近くで歩みを止めた。名瀬も立ち止まり、鉄華団とクーデリアさんに声を掛ける。

「いいか? この先にいるのは圏外圏で一番恐ろしい男だ。くれぐれも失礼のねえようにな」

 わたしが屋敷ですることは特にない。だから一人だけ別の部屋に移って、クリームがたっぷりのカンノーリを食べたり、紅茶を飲んだり、本を読んだりしながら時間を潰すことにした。でも、ミカの顔が頭にちらついて、何をするにもちっとも集中できない。落ち着かないまま時間は過ぎて、名瀬、鉄華団、クーデリアさんが迎えに来てしまった。

「クーデリアさんは何か買いたい物ってありますか?」

 モールに着いて、わたしは訊いた。

「そうですね、わたしは――」
「ねえ、クーデリアが買いたい物って一人じゃ選べない物?」

 ミカが言った。

「え? いえ、一人でも大丈夫ですが……」
「それじゃあ、は俺が連れて行く」

 わたしはとっさに反対する。

「だめ」
「なんで?」

 ミカの声はドスが利いていて、わたしは思わず肩を震わせた。すがるように名瀬を見ると、名瀬はひらひらと手を振り、ミカにウィンクをする。

「連れていけ」

 やられた。わたしは、はっとした。名瀬は、最初から、わたしをクーデリアさんの買い物に付き合わせるつもりなんてこれっぽっちもなかったんだ。

「どうも」

 ミカはむすっとした顔で名瀬を一瞥し、わたしの手を取る。そして痛いほどの力で引っ張り、ずんずんと歩いていく。名瀬も、鉄華団も、クーデリアさんも見えない場所まで来て、わたしはふいに引っ張られた。くびれたウエストを抱くように引き寄せられ、肩のあたりにミカの頬が当たった。腕が背中に回り、強く抱き締められる。そして、忘れられない匂いが鼻腔をくすぐった。つんとした、少し酸っぱい、ミカの匂いだ。それを嗅いだ途端、恐怖はすっかり消え去って、慣れ親しんだ安心感に目を細める。

「なんでいなくなったの」

 ミカが呟いた。

「人さらいに遭ったの。それで…………名瀬に、助けてもらった」

 わたしは応えた。

「なんか、ムカムカする。でもいいよ、もう。生きてるならいい」
「ミカ」
「あ、やっぱりよくないか」

 腕の力を緩めて、ミカはわたしの顔を覗き込む。それから探し物を見つけたようなすっきりとした顔になり、笑みを浮かべた。

「一緒にいて」

 わたしは、視界がぱっと明るくなるのを感じた。頭の中から何もかもがなくなって、やるべきことは一つしかないと思った。にっこりと笑い、頷く。

 ミカが少し背伸びをし、熱い唇の感触が火花のように身体を貫いた。触れるだけのキスだというのに、びくりと細い肩が跳ねる。どきどきする。

「ミ、ミカ?」
「逃げないで」

 首筋を、吐息がなぞった。

「もう一回したい」

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