それから

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 頭の中がペンキをぶちまけたみたいにまっしろになった。意識が身体からするりと抜け出て、わたしが、わたしを、第三者のように見ているような奇妙な感覚に陥る。立っているのか、座っているのか、横になっているのか分からない。上下左右もはっきりとしない。

「ナゼ! アミダ!」

 アイスブルーの目をぴかぴかとさせて、ハロが耳を開いたり閉じている。

! ! ミトメタクナイ!」

 ああ、いやだな。

 アトラちゃんのすすり泣く声が聞こえる。少し首を動かして、周りを見れば、眉尻を下げて悲しむみんなが目に映った。わたしはこれと似た光景を知っている。だから、分かりたくないけれど分かってしまう。ハンガーに入った通信の内容は本当だったんだ。三メートルくらい先にいる三日月と目が合って、手招きをされる。わたしは近付こうとした。でも身体がうまく動かない。ハロが背中をぐりぐりと押してくれるけれど少しずつしか前に進めない。それを見て、三日月が、涙を流しながら抱きついているアトラちゃんの肩を叩いた。三日月はアトラちゃんを無言で引き剥がすと左手で壁を押す。

「……ちっ」

 三日月が苦虫を噛み潰したような顔をする。わたしと三日月の距離はあまり縮まらなかった。それでいい。わたしはほっと胸を撫で下ろす。今、海色のまっすぐな虹彩を見れば三日月に縋ってしまう気がした。まぶたを閉じて、左の頬にプラチナリングを当てる。第二次ヤキン・ドゥーエ戦役が終わったあと、わたしを最初に抱きしめてくれたのは家族でも友だちでもない。イザークだった。わたしの身体は、イザークの腕の中におどろくほどぴったりと収まった。強く抱きすくめられて、わたしは肩の骨が砕けそうだと思ったけれど、イザークの背中に手を回し、胸に頬を寄せた。そして心臓の上に耳をつけた。聞こえてくる音には、じわじわと沁みてくるような温かさがあった。これさえあればいいと思った。目の奥が熱くなって、わたしは泣いた。イザークも静かに涙を流した。わたしたちは何も口にせず、しばらく二人分の泣き声だけが鼓膜を震わせた。ぎゅうぎゅうと抱きしめていた腕の力がふっと弱まったとき、わたしが顔を上げると、ぼやけた視界いっぱいにイザークの顔が広がった。唇を重ねられた瞬間、言葉を交わすことでは決して伝わらないものが美しく光って弾けた。激しくて誠実なキスだった。涙がますますあふれて止まらなくなった。わたしからも唇を重ねにいった。夢中でキスを送り合った。あたかも、深い悲しみを安心感で上書きするかのように。悲しみというのは生きれば生きるほど膨らむらしい。それが震え、揺れ、砕け散り、胸を刺す痛みはひどいものだった。だからこそ、冷たい海からようやく引きあげられて、上等な毛布にすっぽりとくるまれたみたいな安心感が嬉しかった。わたしとイザークは抱き合ったまま、倒れ込むように短いうたた寝をした。そのあとの時間は慌ただしく過ぎていった。わたしは、AAに乗ることを余儀なくされた上、ザフトへ引き渡された民間人のコーディネーターというかなりややこしい身柄で、イザークはザフトでやることがたくさんあった。挨拶もそこそこに離ればなれになって、わたしは淋しさと忙しさでどうにかなりそうだった。だから、気を紛らわそうとハロをよく小突いていた。ハロはアスランの製作意図と別の用途で大活躍したのだった。

 わたしは、誰かを殺したくて引き金に手をかけるようになったわけじゃない。殺されたから殺して、殺したから殺されて、また殺されたからまた殺して、また殺したからまた殺されて……。その繰り返しで、最後は本当に平和になるなんてこれっぽっちも考えていなかった。あれだけの戦争をして、あれだけの思いをして、たとえ、どんなにごまかしてもMSはMSで、人を殺す兵器でしかなく、欲した力を手にしたときから、今度はわたしが誰かを泣かせる側に変わると知っていた。過去に囚われたまま戦っても何も戻らないとも、誤った力は未来まで殺しかねないとも気付いていた。それでも、守りたいものがあった。いつだって、それは細い指の隙間から砂のようにすり抜けていった。もしあのとき力があればと何度も嘆いた。それから、残っている大切なものすら守れないことが怖くてたまらなくなった。失いたくない。気付けばその一心がわたしを支えていた。信念に似たものでも燃やしておかなければ立っていられなかった。もう誰も殺させない。このたったひとつのエゴを貫く難しさの中、MSに乗れば強くなれるなんて検討違いだったと実感しても、パイロットスーツに袖を通し続けている。わたしはまだ変わらない。



 三日月の呼びかけに目を開けると、わたしへ向かって伸ばされる左手が見えた。わたしがまぶたを閉じている間に三日月との距離は縮まっていたらしい。わたしが手を伸ばせば、お互いの指先が触れ合いそうな近さまで来ている。手が繋がれば、もっと近付けそうだ。でもわたしは手を伸ばさないでいる。一緒にいてほしいのは今も今までもこれからも三日月じゃない。

「イザーク」

 太陽の光の射し込まないハンガーで呟いて、呼吸がほとんど消えかかっていたことに気付く。鼓動は危うく微かだ。イザークに触れてもらわなければ止まってしまいそうなほど弱りきっている。わたしは右手の薬指で輝くアクアマリンを左手の人指し指でなぞった。

「役立たず。わたしが殺してしまった」

 名瀬さんとアミダさんが死んでしまった。いっさいの物事を抱えて、少しの嘆きすら見せない最期だった。どうしてわたしは名瀬さんの指示に従って待機なんてしたんだろう。こんなに悲しい気持ちを味わうのなら、シノ、アキヒロ、ライドと一緒に飛び出していけばよかった。ラクスが教えてくれた何かをなすときの唯一の方法を思い出す。まず決める。そしてやり通す。ああ、失敗してしまった。わたしは意思が薄弱だ。根性が甘い。あれほど欲しかった力のMSがまるでオブジェだ。パイロットスーツもただの服同然。悔しくてたまらない。腹が立つ。力だけでも思いだけでもだめなのに。

「救えなかったからって、が殺したわけにはならないよ」

 視線を上下左右にさ迷わせて、三日月がもごもごと口を動かした。三日月のかさかさした太い指先が、わたしの白くて細い指に触れる。そのまま引っ張られて、わたしは手首を掴まれた。強い力で引き寄せられ、三日月の片腕に閉じ込められる。その瞬間、わたしをわたしに繋ぎとめていた糸が信じられないほどたやすくほどけた。

「でも、もしイザークが死んでたらわたしはわたしを許せない」

 たとえ生きていたとしても、こんなに遠くからだと守れない。イザークのことを考えると、透明な二粒の水滴が瞬きと一緒にはじき出された。最初の涙がこぼれてしまえば、水辺の草みたいにまつげが濡れてくる。たちまち川が決壊したように涙があふれて止まらなくなった。誰かの前でこんなふうに泣くのは久しぶりだった。わたしはいつも声も涙も出さずに泣いている。コックピットで俯いて、ハロに額をじっと押しつけるのだ。そして、眠りこんでしまったみたいに静かに瞼を閉じ、まつげや唇を小さく震わせる。そうするのは、誰にも泣いていることを知られたくないからだった。人は残酷さと優しさを併せもつ生き物で、タービンズや鉄華団のみんなは特に優しい。わたしは弱い。だから優しさが毒になってしまう。誰かに優しくされれば、もうひとりで立っていられなくなる。それを恐れて、わたしはずっとこっそりと泣いていた。でも、今はコックピットの中じゃないし、川も湖も近くにないし、水の源がわたしの中にあるのを隠しようがない。せめて三日月の拘束から逃れようと両手で胸板をぐいぐいと押してみるけれど、うんともすんともいわなかった。それどころか、気を配って大切なものを扱うように、一定のリズムでとんとんと背中を叩かれる。わたしはどうにもできないことを悟った。ゆっくりと俯く。

「イザーク、死なないで。生きていて。お願い。忘れないで。イザークの中のわたしを殺さないで」

 場違いな行動だと自覚しつつ、はっきりと口にして願うくらいの抵抗を見せなければいけないという奇妙な強迫観念にとらわれて、わたしは聞き分けのない子どものように言った。そして叫ぶ。

「帰る……!」

 想像していたよりも悲痛な声が響いた。三日月が口を開き、閉じて、また開く。何かを言いあぐねているみたいだった。最近、三日月はわたしに対してだけ歯切れが悪くなった気がする。口ごもることも多くなった。

「…………イザークって……」
「イザークは、わたしの、一番」

 わたしは嗚咽で言葉を切りながら言った。三日月の肩腕に力が込められる。

「イザークがいつから一番になったのかなんて分からない。でも、きっと、ずっと前から一番だった。生まれる前から。いつまでっていうなら、永遠にで、永遠にイザークが一番。永遠に、永遠に」

 永遠という言葉はなんともいえない怖さをはらんでいる。気分が優れなくなりそうだ。

の帰りたいところは……」

 三日月が戸惑いを感じさせる声で呟き、続ける。

「俺の命はもともとオルガに貰ったものなんだから、俺の全部はオルガのために使わなきゃいけないんだ。でも……ううん、なんでもない」

 そういえば、川はどんなときも流れているけれど、イザークは石にひっかかったみたいにわたしの近くで立ち止まることがときどきあったっけ。その度、何かを言おうとしていた気がする。そしてうまく言えた試しはない。わたしは、プラチナリングを渡された日を境に、勘違いとか自惚れとかではなく、あれはイザークがわたしを好きだからだったからだと思っている。なぜなら、好きなもののそばにいるとき、人は口ごもってしまうからだ。

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