対人距離外のレディ・ジャンヌ

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

Before the dawn

 女が橋の上に立っている。川は月の光に照らされ、ガラスの破片をばらまいたようにキラキラと輝いている。しかし、女の顔は絶望の色に染まっており、美しい風景の中で異質だった。そこへ男が通りがかり、足を止める。
「おまん、どうしたがか?」
 男が訊いた。女はその問いに応えることなく尋ねる。
「ここは、どこですか」

Morning

「あーっ、やっと半分終わった!」
 は文机の前で伸びをした。天井が見えるくらいぐうっと体を反らして、そのまま畳に背をつける。そして袂から時計を取り出した。
「けっこう時間かかっちゃったな……」
 と言って、ため息をこぼすと目を閉じる。
 畳を伝って誰かの足音が聞こえる。とん、とん、とん。それは一定のリズムで静かに近付いてきた。はまぶたを押し上げ、体を起こす。
「お疲れさまです」
「青谷さん」
 足音の主は青谷だった。青谷は一杯の熱い茶と小鳥と花の形をした練りきりを盆に乗せている。
「進み具合はどうですか?」
「うーん、予想していたよりも時間を使ってしまいました」
 は手紙の文章をなぞる。
――I hope that our countries will maintain friendly relations in the future.
(わたしは祈っています、わたしたちの国が、友好的な "relatinons" ……関係を "maintain" するということを? "maintain" は "keep" で書き換えられるから、『わたしは、わたしたちの国が将来友好関係を維持することを祈っています。』かな)
 は筆を持ち、翻訳した言葉を楷書で和紙に書き付けた。和紙には四角い文字が横書きでずらりと並んでいる。その中で『将来』の二文字がやけに浮かび上がって見えた。
(新撰組はやっぱり滅びていくしかないの?)
 青谷が文机に盆を置いた。そして微笑を浮かべながらの隣で口を開く。
「でも、さんの翻訳は分かりやすくて正確だと評判ですよ。お上からお役目をいただいてもいいくらいの働きぶりです。先生なんて『男だったらなァ』ってしょうっちゅうぼやいてます」
「あはは」
 は苦笑した。窓のほうへ向き、朝日の眩しさに目を細める。こうして幕臣・勝海舟のもとで働けるのは、ひとりの男のおかげだ。男は、大きなことを成すには、義理も、思想を変えて恥じることも、礼儀も邪魔だと言い切った。それから、国を憂うのに男だとか女だとかは関係なく、できることがあるのなら女だって男に気後れする必要はないと告げた。国を憂うと言われてもは佐幕派も尊皇攘夷派もぴんとこなかった。しかし、やれることがあり、それをしなければ生きていけなさそうだった。だから男の手を取った。そして、あれよあれよという間に勝へ紹介され、今に至る。
「お茶とお菓子、ありがとうございます。昼から少し休憩しますね」
「ええ。私と先生は予定通り外出します」
「はい、お勤めご苦労さまです」
 は小さく頭を下げた。青谷は目を細めてにこりと笑うと、部屋を出ていく。襖が閉まったのを確認して、は湯飲みを持つ。ふうーっと息を吹き掛けると、顔のあたりが温かくなった。そのまま茶を一口飲み、天井を仰ぐ。
(どんなときでも、どんな場所でも、人が煎れてくれたお茶はおいしいんだな)

Noon

 あんみつを食べ終えて店から出ると、浅葱色がの目の前を通り過ぎた。
「坂本を探せ!」
「どこだ!」
(まさか)
 は目を見開き、浅葱色を追いかける。心臓がうるさいくらいにどきどきして冷や汗が吹き出した。浅葱色に白色のダンダラ模様があしらわれた羽織は新撰組のトレードマークだ。隊士たちは駕籠を見つけ、運んでいる男たちに中を見せるよう指示している。彼らの追っている坂本が乗っていると思ったらしい。
 しかし、駕籠から顔を出したのは勝だった。
 失礼なことをしたとペコペコ頭を下げる隊士たちを見ながら、は汗を拭く。そして勝に近付く。
「先生」
「おう、か。俺ァ、もう一仕事あるから先に帰ってろ」
「はい」
 はかがんでから礼をし、面を上げるタイミングで不自然にならないよう駕籠の中を覗き込んだ。
(ああ、もう逃げられない)
 駕籠の中の上のほうに、坂本が瞳の中に星を散らばらせて貼り付いている。坂本は嬉しそうに口を動かした。ひ、さ、し、ぶ、り、と。そして、器用に手を懐へ入れてごそごそし始めた。は暢気さに呆れながら、勝に話している様子で坂本へ話しかける。
「先生のもとで働けて嬉しいです。右も左も分からない、迷子のようなわたしだったけれど、紹介してもらえて本当によかったと思っています。感謝してもしきれません」
「なァに、いいってことよ」
 自然な会話になるよう、勝は応えた。それから坂本の包みを受け取り、に渡す。
「土産だ」
 は坂本をちらりと見る。坂本はウインクをした。
「ありがとうございます」
「おう。またな」
 勝がそう言うと、駕籠の簾は下りる。
「はい」
 勝と坂本の二人を乗せた駕籠がどんどん遠ざかっていく。はまっすぐに立ち、それをじっと見つめていた。心の中には暗雲が立ち込めている。
(『またな』の三文字がやけに重たい。リョーマさんと本当にもう一度会えるかな)
 駕籠が見えなくなった頃、は目を閉じた。
(わたしはどうするべきなんだろう。どうしたいんだろう)
 慶応三年十一月十五日、坂本リョーマは近江屋にて暗殺される。首謀者は大和屋鈴。動機は市村鉄之助への私怨。これが、の知っている筋書きだ。

Evening

 まっすぐ宿に帰る気分になれなくて、は町を歩き回っていた。四条から出町柳まで鴨川に沿って上り、Y字に流れる高野川と賀茂川の合流地点になっている三角州のところで腰を下ろす。ぼうっと空を眺めていると、透き通るような水色はだんだん色を変えていった。みかん色の夕日が川の流れにさらさらと溶ける。もう帰らなければいけないころだ。は小石を羨ましく感じた。水の底で静かに転がっている石ころなら、思い悩むことなど何もないだろう。
(リョーマさん、わたし、まだ迷子みたいです)
 ため息をついては立ち上がる。本当は何年も前から会いたい人がいる。助けになりたい人がいる。しかし、差しのべられて掴んだ手を、その人に会うために振り払うことはしたくない。それがわがままで欲張りだと分かっていても、できないのだ。
 今出川通を西へ行き、堀川通へ差しかかると南へ下る。丸太町通、竹屋町通、夷川通、押小路通、御池通、姉小路通、三条通、六角通、蛸薬師通、錦小路通、四条通を過ぎ、ずっとまっすぐ進んですっかり暗くなった頃、西本願寺が見えてきた。唇をぐっと噛んで、塀に沿っては歩く。
「ケホッ、ゴホッ」
 咳が聞こえてきて、足がピタリと止まった。労咳で身体がボロボロになっても、愛刀を決して放さなかった剣士。鬼のような形相で斬り込んでいく姿。子豚を抱き、穏やかに浮かべられた春のような笑顔。ゾッとするほど真っ赤な返り血の海の中で流される幼い涙。記憶が走馬灯のようによみがえった。咳の主が京都で名を揚げる前から、は彼を知っている。の目は大きく開かれたまま瞬きをしない。呟きがころんと落ちる。
「おきたさん」
「……誰かいるんですか」
 警戒の声がの鼓膜を貫く。体を強ばらせて、は震える両手を口に当てた。声の主は間違いなくが呼んだ名前だ。しかし二人は知り合いでもなんでもない。沖田が砂を踏みしめる音がの心臓を跳ねさせる。音は遠ざかったかと思うと近付いてきた。
 灰色の雲が風で流れ、月明かりが沖田の顔を照らす。
「わたしを殺しますか」
 は声をふりしぼる。
「あなたが新撰組に仇をなす人であれば」
(沖田さんとこんなふうに会いたくはなかった)
 はきりっと前を見据えて口を開く。
「それなら、わたしを斬る理由はあなたにありません。わたしは勝海舟に付いている者です」
「まさか。女の人が幕臣に付いているだなんて」
「新撰組にも女の人がいたでしょう。性別は関係ありません。わたしの領域では、特に」
 沖田から殺気が溢れだす。ふらつきそうになる足を叱咤して、は息を吸った。沖田が鋭い目をする。人を殺せそうな視線がに突き刺さる。
「あなたに剣があるように、わたしには学問があります」
 は背筋を伸ばして沖田を見据える。
(きっついなあ。どうせ会うなら斎藤さんがよかった)
 緊張と怯えで帯の下にはびっしょりと汗が滲んでいる。沖田は刀に手をかけたまま言った。
「なぜ学問を?」
 は顔をしかめた。沖田からなぜなどと訊かれたくなかった。なぜ剣を、と質問したとしても、沖田はに答えを言わないだろう。おやめなさい、私の答えはあなたの答えにはなりません、と諭すこともきっとない。それにこれは詰問だ。気持ちのいいものではない。
(この時代を生き抜く術は、知識だけだった)
 すうっと目を細めて、は応える。
「強いていうなら、この国の百五十年後のためです」
 沖田はよく分からないという顔をした。当然だ。の身の上や考えを想像できるはずがない。は突拍子もなくこの世界に迷いこんだ。そんなに、はじめて声をかけたのが運よく坂本だった。運がよかったといえば、が英語をきちんと勉強していたこともだ。
「そして、沖田さん、あなたに生きてもらうためです」
 は笑みを浮かべた。世界線を越えた理由を見つけた気がした。沖田はもう厚さ数ミリメートルの存在でない。思いきって踏み込んで、腕を伸ばせば触れられる。世界を革命する力は、月の光に照らされている手の中にある。

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