でも、実際のところ、そこそこ幸せだからいいんです

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 普通に生きるのは一番簡単そうにみえて最も難しい生き方です。想像してみてください。たくさんの平均台が、プールの飛び込み台のようにずらーっと並べられています。あなたは、そのうちの一台の前に立っています。両隣の平均台にはあなたと同じ年に生まれた人が臨んでいます。その隣にも、その隣にも、その隣にも……。あなたは自分の平均台を見ます。それが、あなたに用意された普通の人生のレールです。平均台は真っ直ぐに続いていて終わりが見えません。終わりがあるのかも分かりません。あなたは平均台に乗ります。落ちないよう慎重に少しずつ進んでいきます。一歩でも踏み外せば、アウトです。普通にはもう戻れなくなってしまいます。もしあなたが平均台から足を踏み外してしまえば、その瞬間、落ちたあと、他の人たちはあなたよりも進んでいます。あなたはその人たちの背中を見ながら、また平均台に乗りました。走って追い付くことはできません。なぜなら、平均台だから。不安定な足元に身をすくませながら、一歩ずつ前を目指すしかないのです。失われた時間を取り戻すことは、不可能なのです。

 第一問。とはどのような人物か、十文字以内で述べよ。もしそのような問いがあれば、誰もが迷わずこう書くでしょう。ものわすれがひどい。もしくは、きおくりょくがわるい。後者は句読点が欄外になってしまうから減点ですが、この二つの解答はどちらもわたしがなかなかものを覚えられないということを端的に表していると思います。ただ、わたしの名誉のため補足するとテストの点数はすこぶる良好でした。記憶として定着しにくいのは、新しいクラスメートや新しい学校、新しい道など、そういった新しいものです。勉強だって新しいものといえばそうなのですが、わたしにとって初めて知ることでないから例外でした。一日は三六五日という考えるまでもない常識や、太陽は東から昇るという不変の真理なども同じです。

 第二問。とは何者か、十文字以内で述べよ。もしこのような問題があるのなら、わたしは心の中でこう叫びます。

 転生トリッパーです!

 そうなのです。何がどうなってかは分かりませんが、わたしは生まれ変わったのでした。それを自覚したのは忘れもしない中学校一年生の四月八日。折原くんを目にした瞬間です。そして、転生トリッパーだということに気付かないおかげで普通寄りに修正されていた人生が、普通じゃない人生に決定付けられたのも間違いなくあのときでした。折原臨也を目にし、今までずれていたものが元に戻って、自分がどこに足をつけているか、はじめて分かったような気がしました。前世のことはあまり覚えていません。何歳で死んだのかすら思い出せないのが正直なところです。

 この脳にはすでに人ひとり分の一生の記憶が詰まっています。もう一人分の新しい人生の思い出までしまおうとしても、無理な話です。容易に予想がつきます。とはいうものの、先ほど少し触れたように前世で知り得たことは忘れないらしく、対人関係以外はなんとかうまくやっています。そうです。対人関係を除いては。わたしが、来神高校だけは絶対に受けない、行かない、関わらないとダイヤモンドよりも硬く心に誓ったにも関わらず、家に届いた受験票はその一通だけでした。名字が、お、から始まって、名前が、や、で終わる人のせいとしか考えられません。わたしは受験票を片手にその人へ詰め寄りました。その人は飄々とした顔でこう言いました。

「俺、もうちょっとさんを見ていたいんだよね。まあ、頑張って」

 カチンときて、わたしは言い返しました。

「頑張れっていう言葉、嫌い。なんだか責められてるような気分になる。お前はまだ頑張れていないんだから頑張れって言われているみたい。わたしはわたしができる最善を尽くしているのに無神経だと思う。ありがた迷惑だよ。これ以上、何を頑張れっていうの? ……わたし、鮒になりたい」

 その人はおもしろそうに目を細めました。

「突飛な発言だね。さんの頭はどういうふうになってるのか、一度割って見てみたいな」

 わたしはやっぱり腹が立ち、ムカムカしながら応えました。

「単純だと思うけれど。わたしの中では、ぜんぶ一本の糸で繋がってるの」

 今思えば、折原くんに関心をもたれても不思議ではありませんでした。どの人の顔も名前も等しく忘れてしまうわたしが、折原くんだけはしっかりと分かっていたのです。これは前世のわたしが折原臨也というキャラクターを知っているためでした。さらに、生まれ変わっている分、わたしは年不相応の言動をしがちでした。それも折原くんの興味を引いたのでしょう。

 すっかりぬるくなって炭酸も抜けた白ワイン。星の見えない夜空。機内サービスの際渡されたプラスチックのコップを傾けながらぼんやりと考えます。どうしてこんなに淋しい思いをしなくてはならないのでしょうか。海外へ行くのはありきたりな理由からです。わたしはわたしに満足していません。むしろ不満だらけで、どうでもいい服を着て、どうでもいい化粧をし、どうでもいいものを食べ、どうでもいいふるまいをするのが許せないのです。二度目の人生だから、完璧にしたいのです。それなのに、理想とは違う行動をとる面を愛してしまえる甘さがあります。そういう隠してしまいたい部分をきれいさっぱり消すために、海を渡ろうと決めました。しかし、どこにいたってわたしはわたし以外の何者でもなく、わたし以外の何者にもなれません。白ワインは白ワイン、夜空は夜空、飛行機は飛行機なのです。

 日本時間の三時半頃にしてオーストラリア時間の四時半頃、朝食が出ました。わたしは進行方向に向かって左の通路側の席に座っています。右隣の女の子がCAにオレンジジュースを頼みました。CAがコップに注ぐとき、オレンジジュースが服に散ります。黄色いしみができて、しょんぼりとしてしまいました。今日から一ヶ月の間、このパーカーを着る予定でした。CAから謝罪はありません。女の子からも。その後、トマトのスープがおいしいおかげで気分は持ち直します。ブロッコリーだの、角切りトマトだの、野菜がごろごろと入っていて、食べている感じがしました。鶏肉は上の方に二個しかなかったのですが、食べ進めているうちに四個も出てきてなんだか嬉しくなりました。食べ終わったあと、一緒に添えられているパンフレットを何気なく見てみるとSoup Stock Tokyoのものだと書いてあります。どうりでおいしいはずです。冷たいと思っていた食後のコーヒーが温かく、また嬉しくなります。残りが三分の一くらいまで飲み終わったところで、前世で好きだった人のことを思い出しました。

 わたしがオーストラリアへ行きたいと思った理由のひとつに、あの人と同じ場所に立って、あの人と同じものを見て、そうしたらあの人のことが何か少しでも分かるかもしれないという希望によく似た考えが挙げられます。すっかり忘れていましたが、確かにそうだったのです。親日国なのも、メルボルンの街並みがずっと行きたかったヨーロッパに似ているのも、治安がいいのも、たいして重要ではありませんでした。

 あの人のことを考えずに飲んだ三分の二と、思い出して口にした三分の一のコーヒーはなんだか苦さが違うように感じました。有線で女性シンガーの歌声が流れています。

   それでもいい それでもいいと思える恋だった

 言ってくれるじゃないのと思いました。ますます切なくなってきて、涙を隠すみたいにあくびをするふりをします。ふとしたときに、ちゃんとわたしを呼ぶ声が頭の中に戻ってくるのです。わたしの意思とは関係なく、もうずっと前のあの人が今にかえってくるのです。まるで亡霊です。淋しくってしかたがありません。どうして今さら出てくるのですか。

 あの人は、わたしの心に拭いきれないしみを残していったようです。

 この世界で恋なんてできるはずありません。わたしの精神年齢は今の同級生と違います。かといって、この見た目よりもうんと年上の人と付き合うのは気が引けます。しかも、折原くんの存在があるため出会いが少ないのです。折原くんは、わたしが来神高校を卒業して大学へ入っても、就職をしても、わたしに興味をもったままでした。

 ある日、一人暮らしの安いアパートで洗濯物を取り込んでいると、灯油を売る車の歌声が聞こえてきました。わたしはふと鍋が食べたくなり、静雄に電話をかけました。静雄は、この世界で一番の友だちです。ひとりで鍋を前にするよりも静雄と一緒のほうがうんとおいしいとわたしは思いました。しかし、静雄に電話をして繋がったのは折原くんの携帯電話でした。そのときの会話はこういう具合で進みました。

「あ、ー? 今どこ?」
「……本当は知っているんじゃないの?」
「もちろん。訊いてみただけだよ。俺、今日は鍋が食べたいんだ。の家にキムチがあるよね? それで豆乳キムチ鍋をしよう」
「静雄に電話をかけたのに折原くんに繋がるのも、冷蔵庫の中にあるものを知られているのももう驚かないけれど、ずいぶんと女子力の高そうなものが食べたいんだね」
「一人暮らしなのに五〇〇グラムもキムチを買ってしまって困ってるんだろう? 手伝おうという優しささ」

 わたしは、折原くんを家に招いて二人で鍋をする約束をしました。わたしが何を作ったとしても、わたしの作ったものなのだから、わたしの味がするに決まっています。それをひとりぼっちで食べたところで何もおもしろくないと思いました。

 ヴーッ。マナーモードにしていた携帯電話が震えます。このような早朝に誰でしょうか。メールを確認してみると、折原くんからでした。折原くんはわたしが起きていると見込んで送信したのでしょう。しかし、なんだか、腹が立ちます。折原くんはわたしのことを分かった気でいるのです。

 静雄、折原くんを早くボコボコにしてくれませんか。

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