スピードスター

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 ほんとうにすきだったのかと訊かれると、正直なところ分からない。
 いま、目の前にいる友だちはびっくりするほどやさしい。ほぼ一年ぶりに連絡したというのに、駅前のベーカリー・カフェへすぐ駆けつけてくれた。それだけじゃない。中学生のときからうちのSOSに誰よりも早く気付いて心配してくれた。どないしたんや、言ってみって諭して、視線を合わせて、張り裂けそうな心に無理やり押し込んだ声を引き出そうとしてくれた。今日だって同じだ。いま、彼は考えていることを全部話してしまえって顔をしてる。でも、あほみたいに、きれいさっぱり言い尽くしてしまったら、自分のことやのに分からへんのとか、ほんならすきでもない相手と付き合ってたん、ひどいやつやなとか、思われかねない。それは避けたい。うちは謙也がいなかったらストレスで死んでしまうに違いないと信じられてしまうくらい、謙也がおらんとあかん。謙也がいてくれへんと言いたいことが胸のあたりにどんどん貯まって、いつか破裂してしまいそうだ。本気でうちを叱ってくれて、元気にしてくれる人は謙也くらいしか思い付かない。だから、一生、友だちでいたい。嫌われるわけにはいかない。
「謙也、まずは食べよう」
 うちと謙也と同い年くらいの大学生っぽい店員さんが持ってきてくれた海老とトマトのクリームパスタはほかほかと湯気を立てていて、めちゃくちゃおいしそうだった。実際、うちはそれがおいしいことを知っている。店員さんに海老トマトの愛称で呼ばれているパスタは、フランスの国旗がトレードマークのチェーン店でうちが一番気に入っているメニューで何回も食べたことがある。ただ、いつもと違うのは一枚の取り皿と二個のパンがあるところだ。うちはパスタ、うどん、丼ものといった料理は一人前を食べきる前に味に飽きてしまって、途中で食べ進めるスピードががくんと落ちる。どんなにおいしいと思っていても最後に苦痛が残る。だから謙也と一緒に食べるときは必ず助けてもらう。
「いただきます」
 うちは言った。
 腹が減っては戦はできぬ。謙也とは勝ち負けを競うわけじゃないけれど、話を聞いてもらうというのは自分を晒け出すということだ。見せる部分が多かれ少なかれ、自分の一部。だから認めてもらえるとすごく楽になる。逆の場合、疲弊している状態がさらに悪化する。人と喋るよりも黙っているほうがずっとリスクがないのに、安らぎを求めてしまうのは戦と似ている。戦をすればすでに治めている領地が失なわれるかもしれないのに、新しい土地、ひいては天下を取ろうとする戦いに。これが大袈裟なたとえだとは感じない。だって、とてもしんどいのだ。朝日なんて二度と見たくないと嘆くくらい未来に希望を見出だせないでいる。どうしたら思い描く気高い理想のように生きられるのか見当がつかない。美しくないのは罪だ。打算的な人間は汚い。罪悪だ。うちも罪悪。謙也を呼び出しておきながら、どこまでをどういうふうに話そうかと思案している。醜い。
「いただきます」
 手を合わせるうちに続いて、謙也も小さく頭を下げた。うちはフォークを回し、半分に減ったパスタを絡ませる。その回転に合わせ、海老やなめらかなソースがよじれていく。小さな渦を見ているうちに、気分がだんだん落ち着いてきた。生きている限り、きっとどんなに不幸なときでもお腹は空くし食事をする。そして、いまはそんなに不幸せじゃないのが幸いだ。
 海老トマトはやっぱりおいしかった。トマトの旨みがぎゅっと凝縮されたトマトソースに、海老から出るうまみの輪郭をくっきりと感じられる豊かな味わいが加わり、チーズやクリームなどのコクが重なっている。濃厚ながらもしつこすぎない、絶妙なバランスのソースだ。海老トマトを食べ終わって、うちは白いパンに手を伸ばす。円柱を輪切りにしたような形のこれも好きだ。生地はとてもやわらかくて、中にはりんごとクリームチーズが入っている。半月型にちぎってかぶりつけば、甘酸っぱいおいしさが口の中いっぱいに広がった。謙也はミルクティースコーンを半分にして食べている。うまくちぎれなかったみたいで、お皿にうちの分のぶさいくな半分がのっているのが目に入った。うちはこれも気に入っている。ミルクティー味の角切りチョコレートがごろごろ練り込んであってたまらない。
「ほんで? 何があったん」
 謙也は訊いた。何『か』あったん、じゃなくて、何『が』あったんって尋ねるあたり、謙也はうちのことを分かっている。
「彼氏と別れた」
「え、待って。彼氏おったん」
 目を丸くして、謙也はうろたえた。
「うん。でもな、あんまり悲しくないし淋しくないねん。泣けへんし。これってあかんよな」
 やっぱりドライなんやなあと思いながらしゅんとする。小さな頃からそうだった。冷めた視線のうちが、第三者のようにうちを見ている感覚がある。おばあちゃんの家の犬や猫が死んでも泣けなかった。ひいおばあちゃんが他界しても涙が出なかった。もしかすると、お母さんがいなくなっても泣かないかもしれない。だって、死んだら犬も猫もひいおばあちゃんもお母さんもただの死体で、犬でも猫でもひいおばあちゃんでもお母さんでもなくなる。死体のために涙を流したってなんの得にもならない。まぶたは腫れるし頭は痛くなるし、はっきりいって時間の無駄だと思う。彼氏も元彼となってしまえばもう関係ない。過去に生産性はないんだからレポートのひとつでもやるほうがよっぽど効率的だ。うちは自分のこういうドライな一面がきらい。悲劇ぶりたいわけじゃないけれど、あんまりにもあっさりとしすぎているのはどうなんだろうと首をかしげてしまう。たぶん、何も本気で大事にしていないから何に対しても愛着が湧かなくて、なくしたとき、ちっとも惜しまないんだ。それってとても虚しい。
「え、えー……。あー、ええんちゃうん?」
「ええの?」
「だって俺、が泣くのは嫌やし」
 そっぽを向いて、謙也は呟いた。
「なんなん、それ」
「べつに」
「光みたい」
 謙也はぎょっとする。
「財前、が泣くん嫌やって言ったん」
「ちゃうちゃう。べつにのほう。別になんでもないッスわって感じで似てた」
 うちは笑った。
「あ、そっち……」
 謙也は肩の力が抜けたように見えた。
 そういえば、みんなの引退試合が終わったあと、うちは涙が止まらなかった。火がついたようにわんわんと泣いて、あのスーパードライな光すら背中をさすってくれた。ドライといってもうちのと光のとではタイプが違うけれど。白石はいつも通り無駄のないパーフェクトな動きで濡れタオルを渡してくれて、小春とユウジは漫才を見せてくれた。銀さんと健ちゃんも眉をハの字にして心配している様子で、千歳はひたすら謝っていたっけ。千歳が謝る理由なんてないのに、すまんばいって繰り返すから申し訳なさで胸が詰まった。金ちゃんはもらい泣きをしてしまって、一緒にしゃくりをあげていた。謙也は、驚いていた。雷に打たれたような顔でただ突っ立っていた。振り返ってみると、あんなふうに泣けたということは、四天宝寺中学校の男子テニス部はちゃんと大切にしていたということだ。よかった。うちはほっとした。大事なものは確かにあった。安心したらお腹が減ってきて、お世辞にもきれいとはいえないちぎられ方をしたミルクティースコーンを手に取った。
「元彼の、せやなあ、仮名はモトくんにしとくわ」
「適当やな。本名でええやん」
「一応プライバシーやん。守らへんと」
 そう言って、うちは続ける。
「モトくんとは教習所でシャーペン貸してあげたのがきっかけやってん」
「へえ」
「ほんでちょっと喋って、LINE交換したんやけれど、うせやんって通じへんくて、うせやん、イコール、嘘やん、イコール、嘘でしょうやでって教えてあげてん」
「へえ」
「それから仲良くなって、二人で映画を見て、モトくんがパスタ作ってくれたんやで。このパスタがな、笑えるねん。モトくんの友だちが教えてくれたんやけれど、パスタ、ちゃんと試作してたみたいで、友だちに何回も食べさせたんやって。でな、パスタ食べ終わって洗い物手伝ってたら、でこパンチされて」
「へえー」
 うちは覇気のない相づちに眉を寄せた。
「謙也、聞いてる?」
「聞いてるで。でもおもんないわ」
 言葉の通りおもしろくなさそうな顔をして、謙也は口を尖らせた。うちは血の気が引いていくのを感じる。あきれられた? 謙也の顔を見られず、ミルクティースコーンを食べることに集中する。口内に広がるいつもと変わらない甘さがやけに重たい気がした。
「バン!」
 突然、謙也は店内だというのに右手の親指と人差し指をぴんと伸ばし、それ以外の指は握って、ピストルを撃つまねをした。
「なんなん」
「バン!」
 わけがわからない。でも、とりあえずうめいて苦しむふりをする。そこで関西人らしさをふと感じた。関西人は発砲するふりをされると反射的にのってしまうというのはあながち間違いではないと思う。心臓のあたりを押さえていると、ひとつ隣の席に座っているサラリーマンっぽい男の人が髪の間からちらりと見えた。迷惑そうな視線を向けられている気がして、恥ずかしさが途端にこみ上げてくる。
「なんやねん」
 すまして、うちは謙也に言った。謙也の顔には不満ですと透明のマジックペンで書いてある。
「なんやねんは自分や」
「え?」
「今日ほんまは合コンやってんぞ。女子大の子と。それドタキャンして会ってんのにこれかい」
「ごめん」
 謙也も合コンに行くんだな、なんだか少しいやかもしれないなんて思いながら頭を下げた。
「もう誘ってもらえへんかも。どないしてくれんねん」
「それも、ごめん」
 申し訳なく感じる一方、うちよりも先約を優先すればよかったのにと腹が立ってしまう狭い心に苛立つ。
「あーあー、ほんま、あかん。なんでやねん」
 謙也はいらいらとしているような声をあげた。うちは奥歯をぐっと噛みしめた。
「俺、せやけど、に会いに来てん」
「……せやな」
「せや」
 ありがとうと言ったほうがいいのかな。気持ちのこもっていない言葉は薄っぺらいから口にしたくないけれど、空気をよくするためなら仕方ない。
「謙也」
「まさかありがとうなんて言わへんやろうな。そんなんいらんわ。ええ人になりたくて走ってきたんちゃう」
 ぴしゃりと言って、謙也は双眼を鋭くした。険悪な雰囲気は疲労でうちを押し潰そうとする。
「なあ、俺がなんでここにおるか分からへんの」
「ごめん」
「もうええわ」
 ため息をついて、謙也は立ち上がった。ポケットからスマートフォンを取り出し、いじり始める。うちも慌てて席を立った。
「シャーペンは貸してもらったことあるし、めっちゃ喋ってるはずやし、ここからでええやろ」
 むっとした声のあとすぐにうちのスマートフォンが震えた。謙也が確認しろと視線で促してきて、おそるおそる画面を明るくする。謙也からの新着メッセージに目を見開く。うせやんって何。そう表示されている。謙也はうちをちらりと見た。謙也の意図が分からないまま、うせやんの説明を打ってみる。送信とほぼ同時に既読の二文字が現れて、また新しいメッセージが届いた。さっと目を通して驚く。今から二人で映画行かへんって書いてある。どういうこと? テーブルからなかなか離れないうちと謙也を奇妙に思ったのか、サラリーマンらしき男の人がぶしつけな視線を送ってきた。とにかくここから出ていきたくて、いくと打つ。漢字に変換もせず送信する。やっぱりすぐに既読となった。ようやく謙也が歩き出す。新着メッセージは、何パスタがええねん、だ。パスタ? 混乱したまま、オイル系とだけ入力して送信ボタンをタップすると、浦島太郎が駆けてきてサムズアップをする動くスタンプで返事をされた。そして、たった三文字でそれ以上の衝撃をもたらす言葉が新たに表示された。すきや。目をぱちぱちとさせて、もう一度見る。何度も見る。やっぱり、すきや、だ。すき家? もう子どもじゃないからそんなボケはしない。へたれと返して、ポケモンのゲームのサウンド付きドットスタンプも合わせて押した。ゼニガメとヒトカゲが戦っているそれの通り、謙也のかっこよくない告白は、こうかはばつぐんだった。

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