七月六日

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 そのシャンプーを買ったのは本当に偶然だった。偶然だったけれど、ばかみたいに明るいパッケージを目に入れたとき、オレンジ色の頭がぱっと思い浮かんだのは確かだ。瞼を閉じなくてもその顔や声はよみがえる。
 大きな瞳に小さな星をきらきらと輝かせながらあの子はわたしに、ちゃん見ててよ! と言って手品をよく披露してくれた。失敗したことは一度もなかった。そしていつも誇らしそうに笑うのだった。俺、すごいでしょ、と声を弾ませていた。夏になるとふたりで必ず海に行った。海の近くにはひまわり畑があって、帰りにそこでアイスキャンデーを食べるのが決まりだった。ひまわりは夕陽に照らされて金色に燃えていた。
 あの子はとても運がよく、当たりつきのお菓子を買えばいつも当たった。そういうときあの子は決まって、ラッキー、と言うのだった。そしてひとつおまけしてもらい、わたしにくれた。わたしは、ありがとう! 大好き! なんて現金なことを言って喜んだ。ひまわり畑のそばには駄菓子屋がぽつんと立っていて、そこのおばあちゃんは当たりかどうかを確認する前にもう一本くれるようになっていた。そういうわけで、ふたりでひとつ分のお小遣いを出しておやつを分け合うのは当然のことだった。
 あの子はひまわりのように眩しかった。明るくってぴかぴかしていて、地上の太陽みたいだった。
 あの子とわたしはいわゆる幼なじみというやつで、物心がつく頃には隣にいるのが当たり前になっていた。横に並べばどちらともなく手を繋いだ。でもかといって家族ほど甘えられる関係ではなく、家族よりは遠くて友だちよりも近い、親戚というか、なんだか気になる相手というか、内と外にカテゴリー分けするなら限りなく内側に近いのだけれどそのどちらに分類されることもなく境界線上にいるといったほうがしっくりくるような存在だった。わたしたちはそういうふたりだった。
 でも幼なじみなんて漫画みたいにいいものじゃない。小学校に上がってからわたしはあの子をキヨと、あの子はわたしをちゃんと呼ばなくなった。周りの子たちが異性と下の名前で呼び合わなくなったのだ。わたしたちだけがキヨ、ちゃんと言い合うのは照れくさく、また周りと違っていることでの気まずさもあった。みんなに変な目で見られるのがいやで、わたしの唇はぴかぴかする二文字を紡ぐことをやめた。そうしてお互いに名字で話しかけるようになった。なんだか淋しいような気もしたけれど、千石ひとりよりも集団のほうが重要だった。
 呼び方を変えると関係も変わった。千石とわたしは肩を並べなくなったし、手も繋がなくなったし、わたしが千石の手品を見ることもなくなった。海にもひまわり畑にも一緒に行っていないし行く予定もない。もうお菓子をふたりで買うこともないだろう。実際は幼なじみなんてそんなものだ。

 中学三年になって、わたしたちは同じクラスになった。小学校三年生以来のことで、四月、クラス発表のとき、三組に千石清純の文字を見つけてちょっとどきっとした。どんな顔で一年間同じ教室で過ごせばいいんだろうと思った。わたしはなんとなく不安になった。
 教室とは不思議な空間だと思う。あのひとつの部屋に入れられた瞬間、今まで見ず知らずの赤の他人だった人が突然友だちになるような錯覚に陥る。内と外の内にいろんな人がどっと入ってくるような奇妙な感覚もある。それにきれいに並べられた、もっというと区画整理されたというふうにぴっしり並べられたいすと机に変な気持ちにさせられる。三十人もの、同じ年の子どもがこれまた等間隔に頭を並べているのを見るといよいよその気持ち悪さは増す。
 教室は、おばけ。
 でも誰かにこんな話をしても分かってもらえないし不審がられるのがおちだから、わたしは黙っている。他の生き物には絶対になくて、人間にだけあるもの。それは、ひめごと、というものだ。

 お昼休みになり、お弁当を食べようとしていると千石が言った。
「なんかどっかで嗅いだことのある匂いがするんだよな~」
「なにそれ」
 笑ながらわたしは応える。わたしと千石は今月から隣の席に振り分けられている。
「今日のホームルームからずっと考えてるんだよ。どこでだったかなあ」
「それはうそ。さっきの歴史寝てたでしょ」
「あ、ばれてた?」
「ばれるよそりゃ。先生は気づいてなかったみたいだけれど」
「それならいいよ――」
 と千石が言い終わりそうなところで、わたしは次に出てくるであろう単語をすぐさま唇に乗せる。
「ラッキー?」
「うん、ラッキー」
 千石は頷いた。
 千石との会話はこんなふうにぽんぽん進む。わたしの心配はいらなかったらしい。もともとよく喋っていた幼なじみで、ふたりの間のリズムやテンポなんて何年も前から知っている。だからこうして話していると、まるでぴんと張っていた糸がちょっと緩まるような、ふっと気が抜けるような感じがする。安心という言葉すら似合うかもしれない。
「ということで」
「ノートは貸しません」
「えーっ」
 何が、ということで、になるのか分からない。ということってどういうこと?
「隣でぐーすか寝られてるときにまじめに書いたノートだよ。貸すのばからしいじゃん」
「全然ばからしくない! 優しさ溢れる慈善活動だと思う」
「えーっ」
 とわたしは千石みたいに言った。
「えーっ」
 千石も繰り返す。しばらくふたりで、えーっ、えーっ、と言い合う。
「わたしそろそろお弁当食べたいんだけれど」
「食べればいいじゃん。俺にノート貸してさ」
「えーっ」
 また、えーっ、の応酬がはじまりそうになると、そろそろだ。
「あの」
 ほら、わたしの左斜め後ろ、千石の真後ろから控えめな声が聞こえた。
「なに? モモちゃん」
 と千石は返事をした。このあとモモちゃんはきっと、よかったらわたしのノート貸そうか? と言う。千石は、ラッキー、ありがとう、と言っていつも通りノートを借りるだろう。
 モモちゃんは言った。
「よかったらわたしのノート貸そうか?」
 千石は応える。
「ラッキー、ありがとう」
 やっぱり。
 ふんわり笑ったモモちゃんを見て思う。最近彼女はきれいになった。

 あまりにも暑いので、家に帰るとすぐクーラーをつけた。アイスクリームが食べたいなと思って冷蔵庫を開ける。ない。そういえば昨日最後の一本を食べた気がする。ないものは食べられないから我慢しようかな。でもお腹はすっかりアイスクリームの気分になってしまっている。そこで好きな芸能人の言葉を思い出した。
 人生最期の瞬間、ああ、あれ食べておけばよかったなあなんて思いたくないじゃないですか。だから僕は好きなときに好きなものを好きなだけ食べます。
 そんな言葉が頭に浮かんでは、コンビニに行くしかない。汗で気持ち悪い制服を脱いでシャワーを浴びる。浴室にシャンプーの甘い香りが広がった。さっと流して髪を拭き、マキシ丈のワンピースに着替える。パーカーを羽織る。サンダルを履いてドアを開けた。蝉がうるさい。

 あ、と思ったときにはすでに目がかち合っていた。
「やあ」
 ラケットバッグをかつぎ、いかにもテニス男子ですというふうの千石に声をかけられる。
「今日も延長?」
 わたしは横断歩道を目指す足を止め訊く。
「そ。大会近いからね」
 信号が赤に変わった。中学最後だもんね、頑張ってね、なんてありきたりな言葉を飲み込む。薄っぺらいエールを送ったって仕方ない。
は? どっか行くの?」
「うん、コンビニにアイスクリーム買いにいくところ」
「おっ、いいねえ。俺も行こうっと」
 青信号になった。わたしたちは歩き出す。この横断歩道を渡って五分ほどあるけばコンビニだ。さらに五分歩けば公園があって、そこから十分くらいのところにわたしの家があってその隣に千石の家が並んでいる。
 昨日カレーだったでしょ、の家は焼き魚だろ、そうそう、エトセトラ、エトセトラ。話をしていればすぐ目的地に着く。わたしたちの間に流れる時間は早い。
「あー、涼しい」
 自動ドアを通り、一直線にアイスクリームのあるところへ進む。
「俺はこれ」
 千石はマンゴー味のアイスキャンデーを迷わず選んだ。それを見てアイスクリームに伸ばしかけていた手を止める。
「……わたしも」
 と言って同じものを取り出した。
 会計を済ませ外に出ると、むわっとした風に迎えられる。
「千石さ」
 と言ってわたしは袋を開ける。
「んー?」
「歴史で寝たあとノート貸してって言うけれど、わたし一度もそれにいいよって返事したことないじゃん。で、いっつもモモちゃんに借りてるじゃん」
 しゃり。マンゴーの味が口に広がる。
「なのになんで毎回わたしに頼むの?」
 わたしは言った。ずっと不思議だった。最初からモモちゃんに頼めばいいのに。モモちゃんならきっと快くノートを貸してくれるだろう。
 コンビニの青白いライトが千石の頭を照らしている。影になっていて表情はよく見えない。わたしはオレンジ色をまたかじる。しゃり。千石もそうする。しゃり、しゃり。千石が言葉を発する気配はない。
「……帰ろう」
 わたしは言い、歩き出す。
「わたし思うんだけれど、モモちゃんは千石のこと好きだよ」
「だからノート貸してもらえって?」
 千石は言い、続ける。
「それは違うんじゃないかなあ」
 わたしは黙る。それもそうだ。
「あとさあ、気持ちを酌んでやれっていうことならもだよ。俺にノート貸してよ」
 ぴたり。動きが止まる。千石がわたしを追い越す。
 気持ちを酌めっていうなら、わたしも? それってどういう――。
「ラッキー、また当たり」
 わたしの疑問符なんて構わず千石はにっと口角を上げた。そして公園の入り口にある手洗い場へ向かう。蛇口をひねってアイスキャンデーの棒を洗い、二三回振って水気をとるとラケットバッグから巾着を取り出した。半分くらい入っているようで軽く音がする。当たりの棒がその中に吸い込まれていくのをぼんやり見ていると手招きされる。わたしはただ足を動かす。ん、と言って袋を差し出された。わたしのアイスキャンデーはすっかり溶けてしまっている。手がべたべただ。蛇口をひねる。手と一緒に棒も洗ってみるけれど、はずれ。
「なに?」
「いいから中見てみて」
 言葉の通り覗くと、お菓子の当たりくじばかり入っている。アイスキャンデー、グミ、ガム、飴、どれも小さいときに好んで食べていたものばかりだ。
「それだけじゃなくて家にあと何個かあるんだよ、にあげようと思ってる分」
「……え?」
 一瞬、蝉のうるさささえどこか遠いもののようになる。時が止まった。そんな気がした。
「ずっと、が俺のこと千石って呼ぶようになってからずっとこうして集めてるんだ」
 千石は言い、続ける。
「俺の好きな子はー、当たりくじあげるといっつもすっごく喜んで、ぱあって笑うの。大好き! って。俺はそれが嬉しかったからこんな巾着持ち歩いてるの。ばかみたいだけど」
 思考が追いつかない。千石は、なにを言っているんだろう。ひとつひとつを頭の中で整理して口を開く。
「ばかみたいっていうか、ばかだよ」
 わたしは言った。
「だって、そんなの、小学校からじゃん。ばかだよ」
「だよねえ。……もう喜んでくれない?」
 そんなふうに言って目の前の男が淋しそうな顔をするものだから、わたしは反射的に口を開く。
「そんなことないよ」
 食べたいときに食べたいものを。言いたいときに言いたいことを。わたしは後悔なんてしたくない。
 なるべくきれいに、ぱあっという音が似合う笑顔になるように笑う。
「嬉しいよ、キヨ。ありがとう」
 するとぐいっと手を引かれた。抱き締められるような形になる。はっと息を飲む。固まる。
「俺ずっと、ほんとはこうしたかったんだ」
 キヨは言った。
ちゃん、ひまわりの匂いがする」
 オレンジのパッケージを思い出す。
「あー、そっか、分かった。これだよこれ。俺が教室で考えてた匂い」
「たぶん、シャンプーの匂いだよ」
「シャンプーかあ。昔行ったひまわり畑覚えてる? こんな風に手繋いでさ」
 キヨはわたしから離れ手を握った。昔とは違う、わたしよりも大きいふしくれだった手。豆やらタコやらはテニスを頑張ってきた証拠だ。
「うん。……あそこのおばあちゃん元気かな?」
 わたしは言う。
「うーん、どうだろう。ちゃんと行ったのが最後だからなあ。今行っても一度に二本くれると思う?」
「さすがにもうくれないよ」
 キヨは変わった。わたしも。もう六歳の少年少女じゃない。わたしたちは、新しいなにかになろうとしている。
 手を繋いだまま帰路につく。ああ、今日は月がきれいだ。

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