月面着陸

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 その男の子を見つけたとき、男の子は熱を出していた。個性のせいで体温調節が難しいらしくとてもつらそうだった。だから、そうするべきではないのに思わず手を伸ばしていた。私の個性なら熱をなくすことはできなくてもすこしは楽になるかもしれない。汗のせいでじっとりと額に張り付いている髪を横に流すと形のいい額が現れた。ポケットからハンカチを出して汗をできるだけやさしく取り除く。そして額に手をあてて個性をつかった。普段よりも冷たくなった右手で男の子のうっすらと赤い頬を冷ます。表情がやわらいだ。よかった。胸を撫で下ろす。
「おかあさん」
 ちいさな口が動いた。ああ。
 これは無意味でだれにも必要とされていないことだった。私がいなくても男の子は死なないし元気になるし、この日がなにか特別なわすれられない日になることもない。知っていた。それでも手のひらから伝わる熱が、あと少しだけ、もう少しだけと私に個性を使い続けさせた。結局、おかあさんが男の子を迎えに来る頃には個性を限界まで使い果たしてしまって、意識がひどくぼやぼやとしていた。あたまの芯まで深く霞がかったような感じだったけれど、男の子がおかあさんに抱き上げられてぐずぐずと泣きながら安心したような嬉しそうな気配をにじませていることはわかった。
 後日、男の子は緊張した面持ちで隣の教室からやって来て言った。
「あの、えっと……このまえ、ありがとう」
 鼻の奥がツンとした。目の奥があつくなって涙がこみ上げてきて、大粒の感情がぼろぼととめどなく頬を滑り落ちた。ほんものの子どものように我慢できなかった。男の子は焦ったように驚いて、どうしたの、とか、ごめん、とか、どこかいたいの、と声を掛けてくれた。それでもっと視界が歪んだ。男の子はなんにも言えない私の背中をさすったり、手を握ったり、あたまを撫でたりするうちに同じように泣き出してしまった。やさしい子だからきっと悲しくなってしまったんだと思う。私たちはふたりで泣き疲れて、先生が敷いてくれたひとつのふとんにくるまって寝た。目が覚めて個性を発動させてみると右半身がひんやりとして、すこやかな寝顔がぴったりと身を寄せてきた。それを不思議な気持ちで眺めた。
 私たちは友だち、のようなものになった。この関係性に付ける名前を私は知らなくて、友だち、とは言い切れなかった。そのままいつの間にか幼馴染みと呼ばれるようになっていた。
 あの日私が泣いた理由は、泥棒みたいだと言われた個性がはじめて人の役に立てたと思ったからということにしている。
 人は、生まれながらに平等じゃない。
 何度も何度も繰り返し聞いた科白。これが生まれながらにしてかかった今世の呪い。そして私の、最初で最後の郷愁だ。

 筋書き通りにうつくしい爆発は引き起こされた。
 私の生活は変わった。変わったというよりも元に戻ったのかもしれない。右側の空白を抱えて一人教室を出て歩く。そこにあった熱が絶対に歩みを止めないで、踏み出したら振り返らずにいられますように。窓の向こうの青空にちいさく願い事をした。

 背後から声を掛けられる。つい当たり前のようにからだを翻しそうになる。
「あれぇ? A組の轟君が? 僕たち、B組の、になんの用かなァ!」
 と噛み付くようにして言って、物間が私と焦凍が対面する前に素早く間に割り込んで来た。形のいい頭が煽るように揺れている。
「一緒に飯を食おうと思った。しばらく別々だったからな」
「ああ、幼馴染みなんだっけ? でも、小さい頃から一緒だったからといってずっと一緒に居ないといけないわけでもないよね」
 焦凍が眉をひそめる。
「そうだね」
 私は頷いた。物間の言葉は過不足なく的確だった。焦凍は心底わけが分からないという様子で、は、と呟く。
「焦凍は、焦凍が勝手に焦凍のやり方でなりたいものになれる。私はもう焦凍にしてあげられることがない」
 言い、続ける。
「そもそも最初から私が焦凍にできることなんて一つもなかった。本当は、焦凍はずっと私が居なくても大丈夫だったんだよ。でもあの日から、あと少しだけ焦凍を見ていてもいい? もう一日だけいっしょに居てもいい? そんなふうに毎日思って毎日それが続いて、私の我が儘でずるずると長い間となりに居てしまったの」
 人をほんとうに縛るのは苦痛でも災難でもなくて幸福な思い出だ。私のからだを切れば、何層にも重なった幸福な思い出が砂金のようになってあふれ出すだろう。俯いて目を瞑る。
「今までありがとう」
「ふざけるな」
 低い声が震えていた。
が俺に出来ることをが決めるな!」
 焦凍が叫んだ。私は驚いて顔を上げる。
 あ。赤と白。焦凍がみえる。視界の金色が押し退けられる。両肩を掴まれた。目が合う。左右でいろの違う瞳は両方ともおなじ悲しみとそれから怒りの色をたたえているように見えた。
「でも、だって」
「もしも何も出来ないとしても、これまで何かしてほしくてと居たわけじゃねぇ。何もしなくていい。俺のこと、思ってくれたらもっといいけど」
 目が水っぽくなる。顔を背けようとしたら両手で頬を包まれた。半分つめたくて半分あたたかい。焦凍の個性は焦凍自身によく似ている。氷のように透き通っていて、嘘なんて無く、光を受けてきらきらと気高くてその稜は鋭い。充分過ぎる鋭さは私の胸に刺さって抜けなくて、炎のようにあたたかい。
「それでも、なにもかも何かにとって代わられる。世界はそうして回っている」
 と言って、私は深く息を吸い込み吐き出すように告げる。
「私の代わりもいるよ」
「俺の代わりも居るのか」
 いるわけがない。
 足が勝手に動き出す。懐かしい熱を感じる。オッドアイが細められた。その水面が安心したように嬉しそうに揺らめく。矛盾は、副葬品として持っていくと決めた。

inserted by FC2 system