scapegoat angel

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

「……生きてたならなんで帰ってこなかった……!」
 炎熱の中で涙が燃える。
ちゃんは! なんで!」
 もう殺さないで、と懇願するように言って、音も立てずにしんと泣いたの顔が焦凍の頭の中をよぎった。焦凍よりも二歳年上の聡明で優しくて我慢強い、いつも火傷のあとが絶えなかった。まるで何かに取り憑かれたかのように雄英高校のヒーロー科に進学して、在学中はベストジーニストの事務所で職業体験とインターン活動を行い、卒業後も彼のもとでヒーロー活動を続けている。燃焼系の個性ではないが、耐熱性が最大値のコスチュームに身を包んでいる。彼女がそれを着こなせるようになるよりも前、もっとずっと小さなただの女の子だった頃を焦凍は眺めていた。だから知っている。はきょうだいからもう一人妹が増えたとからかわれる程に燈矢の後ろを付いて回っていた。どうしようもなく羨ましい遠景の記憶だ。
 荼毘が応える。
「知りたいか? じゃあ教えてやる。腐っても兄ちゃんだしな。俺が荼毘になった経緯……最高傑作以上の熱を絶やすこと無く生きてこられた理由を。地獄に舞い降りた天使の話を! 焦凍」
 言い、続ける。
「帰ったんだよ、俺。前より弱体化してんのにさ。期待してるモンなんてあるハズないのに。きっと……変わっていてほしかったんだ。……見たかったんだ」
 八年前、燈矢は走った。身体は欠損部分を再生組織で無理矢理に補って三年間ひたすらに眠り続けたせいで、身体というよりも入れ物だった。一歩踏み出すことすらままならなかった。全身が痛かった。骨が軋んだ。筋繊維が壊れていく悲鳴のような音が重なって聞こえた。アスファルトを蹴るたびに裸足の裏に無数の小石が食い込んだ。古い傷が真新しい傷によって上書きされていった。それでも燈矢は止まらなかった。
 ――また見てもらえるように。でもさ。
「俺を生んだ意味を」
 ――三年ぶりの変わらぬ光景が改めて俺に教えてくれた。俺は失敗作で意味は無く、この家族はもう俺を過去にした。
 その日、燈矢が死んで荼毘が生まれた。


 帰るという執着心にねじを巻かれて突き動かされていた身体は、家だったものから程近い公園の水飲み場の前でぷっつりと糸が切れたように座り込んだ。行くあてを失なった。一度休みたかった。公園の様子は記憶と所々変わっている。自動販売機が新しく設置されて、オールマイトとエンデヴァーと名前の分からないヒーローのパッケージラベルが貼られた清涼飲料水が並んでいる。トイレの外観が綺麗になった。遊具には見覚えのない落書きが増えている。知らない誰かが無邪気に残していった痕跡が深刻だった。
「ねえ」
 声が降ってきた。彼は視線を上げる。
 ――ちゃん?
 ぴたりと閉じていた上唇と下唇を、見逃してしまいそうな程ほんの僅かに震わせて離した。喉が焼けている。ひりついて咄嗟に声が出ない。それで良かった。言いたいことも言うべきことも思い付かなかった。
 燈矢の世界と人間関係は単純明快だった。父親が世界で、特別で一番で唯一だ。それから母親と姉と二人の弟がいた。前者は駄目だめだった。後者は末っ子の焦凍が厄介だった。のことはそのた大勢以上、家族未満、本物の末っ子よりも末っ子らしい妹分と認識していた。所詮その程度の中途半端な存在でしかなかった。
 は足の付け根に手を添えて、真っ白なワンピースを膝裏の少し下まで伸ばし折り込みながらしゃがむ。継ぎ接ぎの目立つ引き攣った顔と同じ目線になった。蒼炎とよく似た色の目と目を合わせる。
「……大丈夫ですか?」
 ありきたりなひと言だった。それは彼にとってどしゃ降りの雨の中で何気なく停まったバスに似ていた。今目の前にとてもあたたかそうなものが来た。だから適当に乗る。愛でも恋でもない衝動の対象になった。
「おれをみて」
 ――気付いて。
 は、ぱち、ぱちとまばたきを繰り返す。見る。白い髪と青い目に火傷、それと怪我が印象的だった。まぶたの裏で蒼炎が翻る。少し考えて言い聞かせるように口にする。
「どんなに素晴らしく役に立つものだって、肝心なときに手の届く範囲になかったら、はじめからないものと同じ」
 頷いて訊く。
「傷に触れていいですか?」
 彼は面白くなさそうな表情をして了承する。
「……いいよ」
 色の白いほっそりとした両手が剥き出しの両足をすくい上げて丁寧に汚れを払う。薄黒くなった指は水飲み場の蛇口をひねって、流水でてのひらを綺麗に洗った。はポケットからハンカチを取り出す。ピンクの花柄のタオル地ですみに犬の刺しゅうが入っていて、使い込まれくたっとしている。燈矢にとってつい最近のクリスマスの日、燈矢がに贈ったプレゼントだった。
「触ります」
 言って、は患部に触れ個性を使う。冷えきったつま先から足首までだんだん温まっていった。傷が見えなくなる。
 まだ傷だらけの指先がなめらかな指先を握ってくいと引っ張る。
 間。
「あのさ」


 青い火の玉が一つ現れた。揺らめいて瞬く間に大きくなる。ぱちぱち、ぼうぼう、轟々と爆ぜて唸る。蒼炎の向こうに人影が見えた。それが誰か分かった瞬間は呆然とする。まつげが震える。唇から息のような声がこぼれ落ちる。
『やめて』
 一歩前に出る。耳鳴りがした。
 プレゼント・マイクの解説が入る。
『先手必勝! 先制攻撃だ! 個性、トラウマ! 相手が最も恐れるものを具現化出来るぞ! 何が出るかはお楽しみのブラックボックスだ!』
『トラウマ? そうだね。その通りだよ』
 は首をかしげて正面を見据える。目が鋭さを帯びる。
『でも本当に怖いものは蒼炎でも燈矢くんでもない。私が本当に怖いものは、二回も助けられないない、私!』
 言いながら大きく右足を踏み出してコンクリートを蹴った。続いて左足、また右足、また左足を繰り返す。真っ直ぐに駆けていく。シルバーピアスが炎に反射して光る。熱波が頬をすり抜けて髪を揺らす。一瞬目を細めた。この程度ちっとも熱くない。もっと熱い地獄の炎を知っている。
『たとえ蜃気楼だって今度は助ける』
 は青い炎熱に飛び込んだ。まやかしの燈矢を抱き締める。二人は一緒に燃えた。
さん、戦闘不能!』
「負けてんじゃねえか」
 テレビの中の雄英体育祭を見ていた荼毘は淡々と言った。勝手知ったる顔でソファーに寝転んで長い手足をはみ出させている。ソファーの前にはがいて三角座りをしている。
「うん」
 相槌を売ってローテーブルの上のマグカップに手を伸ばした。ぐるりと一周水彩画のようなテクスチャーの淡い青地で、北斗七星とカシオペア、その間に北極星が光っている。は中の水面に息を吹きかけた。ベルガモットの香りが控えめに広がる。アールグレイだ。
「燈矢って誰」
 荼毘はなるべく興味がなさそうに聞こえるようにいつも通りの平静を装って訊いた。
「他人に興味を持つなんて珍しい」
 が振り返った。
「……別に。気分」
 荼毘は寝返りを打った。視界がソファーの背もたれに占領される。
「ふうん。相変わらず猫みたいだね」
「うっせ」
「ちなみに私は犬派」
「あっそ」
 ――知ってる。
「燈矢くんは」
 荼毘は息を抑えてじっとする。期待と緊張で全身が耳になる錯覚を覚えた。
「原点、かな」
 は言い、続ける。
「私はこの個性が好きじゃなかった。個性名、身代わり。他人の怪我を自分の身体に移して肩代わりできる。治癒スピードは通常の三倍。それを可能にしてるのが怪我の受け皿として通常の三倍丈夫に出来てる身体。副産物が身体強化。まるで生け贄だよ。こんなふうに他人の傷を請け負うくらいしか使い道がない、傷付いて当たり前の生まれ方をするんだったら痛覚をなくしておいてほしかったのに、普通に痛くて、痛いのは嫌で」
ちゃんを火傷だらけにしてる俺は責められてんの」
「ううん」
 否定して荼毘の頭を撫でる。黒い髪の根本に地毛の白を見付けて眉を下げる。長い間本来の真っ白な髪を見ていない。
「燈矢くんも荼毘と同じで、個性が身体に合ってなかった。それでもひたむきだったからこの人の傷なら背負っても良いって思えた。……あの日、本当は燈矢くんが帰ってきたんだと思ったんだよ」
「なあ」
「なあに」
 荼毘は口を開いて閉じてまた開く。 
「……飯」
 それだけ言って身体を起こした。ごまかすことが随分得意になった。
「はーい」
 はマグカップを片手に立ち上がる。目的地はキッチンだ。水道のレバーをひねり上げて手を濡らし石鹸を泡立てる。荼毘が追いかけてきた。は後ろからするりと抱きすくめられる。心臓が大きく音を立てる。
「今日、どうしちゃったの?」
 慌てて泡を洗い流して火傷に水がしみないように充分に手を拭く。
「さあな」
 はぐらかして荼毘は白い首元に顔をうずめる。荼毘はの前だと衝動的になる。自覚はない。
 は背中の負荷と向かい合うつもりで焼けただれた両腕の中で身じろぎをする。拘束が強まった。所々火傷のあとの目立細い手を大きな手に重ねる。どこにも行かない。ひとりにしない。一緒にいる。大丈夫だよ。安心して。明言はしない。どんな言葉も体温を分け合うことには叶わない。
「ねえ、荼毘」
 とびきり優しい声色によって二本の腕の檻が緩まる。は身体ごと振り向いた。顔を上げる。継ぎ接ぎだらけの変色した頬を両手で包んだ。青い目の底が揺れている。荼毘の涙腺はしばらく機能していたが、もう焼けて正しく泣けなくなってしまった。血の涙がにじむ。
「俺を見ろよ」
 ――気付けよ。
 は慎重に訊く。
「また火傷?」
 いつも荼毘の火傷の度合いとスキンシップの度合いは比例する。
「違う」
 荼毘は落胆と安心がないまぜになる。
「あのさ。……ちゃん、馬鹿だな」
 可愛くってたまらない。

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