十年後の夜の端

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 あかん、心臓吐きそうや。
 そんなことを思いながら駅に降り立つ。振り返ると、車窓に映る赤いセーターにボーイフレンドデニム、トレンチコートを合わせた自分が見えた。久々の梅田は相も変わらず忙しい。人、人、人、人。帰宅途中らしい小学生がきゃらきゃら笑っている。何が入っているか分からない手押し車を支えに進むおばあちゃんと、それを追い越していくスーツの男性。ばっちりお化粧をきめたお姉さんを見て考えた。あの人も誰かに会いに行くんやろうか。

 わたしは今日、金ちゃんに会いに行く。金ちゃんとは中学校のとき出会った。同じテニス部でわたしはマネージャー、金ちゃんはプレイヤーだった。わたしは誰かと打ち解けるのに時間がかかるタイプで、金ちゃんは人懐こくて誰とでも仲良くなれた。当時わたしたちは部内ではよく喋るけれどそれだけというような関係だった。お互いのメールアドレスは知っていたものの部活の連絡事項用として交換したものだったし、オフに遊ぶなんてこともしなかった。だからなぜこんなことになっているのか分からない。

 新年に行われたテニス部の同窓会に金ちゃんの姿はなかった。みんな残念がりながら、金ちゃんは今オーストラリアやからしゃあないわ、しゃあないしゃあないと言っていた。わたしはそこではじめて金ちゃんがテニス留学をしていることを知った。わたしもちょうど三月の間だけオーストラリアへ行く予定だったから、話が聞きたくて他の部員に金ちゃんのLINEを教えてもらった。でもいざ友だちに追加してみてもなんて送ろうか思いつかず、明日にしようと決めて寝た。そして驚くことになる。翌朝、金ちゃんからメッセージが届いていたのだ。気づいたときにはトークが続いていて、ご飯に誘われて、オッケーしたら昼じゃなくて夜の約束で、びっくりしたけれどまあいいかと持ち前の適当さが働き、今に至る。

 トイレでマスカラが落ちていないか確認する。白目がきれいに見えるらしいネイビーのそれは八六四円で買った。ライトブルーの下地は七三四円、リキッドファンデーションは九五十円、アイブロウは一五六六円、アイシャドウは一六二十円、色つきリップは七六四円。今日の顔は六四九八円でできている。やっぱり口紅塗るべきやったかななんて後悔しているとスマートフォンが震えた。

   もうすぐ着くわ! 今日雨降りそうやな、傘持ってきた?

 金ちゃんだ。

   持ってきたで! 改札の前で待ってます。

 わたしは返信する。もう顔を合わせないといけないのか。楽しみだったけれど、楽しみだけれど心臓がどくどくしている。なんでも準備しているときがいちばん楽しい。例えば料理、作っているときがいちばんわくわくする。旅行前、雑誌やインターネットを見ながら計画を立てているときもそう。こんなに緊張するのは久しぶりだ。失敗しないかな。今使っているシャンプーはけっこう香りが強いし、昨日はめったに使わないボディーローションなんて使ってしまって、アウトバストリートメント、ムースの香料コンボだ。ああ、会う前から失敗した。

 とにかく今日は冷静にいこう。落ち着こう。鏡の中の自分を見つめる。ただご飯を食べるだけだ。それだけ。相手は金ちゃんだ。白石先輩じゃなくて、あの金ちゃんなのだ。トイレから出る。改札を抜け、スマホのディスプレイを明るくする。午後四時五十分、待ち受け画面には桜が咲いていた。

 待ち合わせは地下鉄なんば駅の改札ですることになっている。キョロキョロと辺りを見回せば、ツンツンした赤髪が目に入った。きっとあれだ。

「金ちゃん! こっち!」

 くるりと振り向いた顔は、やっぱり金ちゃんのものだった。わたしは駆け寄る。

「おおーっ! 、久しぶりやなあ」
「ほんまに。元気やった?」
「おん。も元気そうやん。なあ、なに食べる?」
「金ちゃんは何がええ?」
「せやなあ――」

 まあ、たこ焼きやろうなあ。
 金ちゃんはたこ焼きが好きで、白石先輩たちの送別会でも、財前先輩の送別会でも、わたしたちの送別会でもたこ焼きパーティーがしたいと主張していた。でも、部員の数とたこ焼き焼き機の数が合わないことと、予算の関係で流し麺類になったのだった。流し麺類の発案者はオサムちゃんだ。流し麺類では、王道の素麺と、マロニーとか春雨とかそばとか中華麺とかを流した。白石先輩は、最後までウチららしくておもろいなあと言って笑っていた。財前先輩も、ほんま不協和音でしかないわと呟きながら楽しそうだった。金ちゃんもにこにこしていたけれど、やっぱりたこ焼きへのこだわりが捨てられないようで、送別会のあと、白石先輩と財前先輩にたこ焼き屋へこっそりと連れていってもらっていた。さすがゴンタクレと思ったものだ。

の食べたいもん」

 金ちゃんは、はにかみながら応えた。
 わたしは思わず目を丸くする。

「たこ焼きじゃなくてええの?」
「……今日は、たこ焼きっていう気分ちゃうねん」
「うーん、ほな――」

 わたしは考えを巡らせる。なんばのおいしいお店。なるべく安くてボリュームがあって、できればちょっとおしゃれなところ。金ちゃんは好き嫌いがなかったはずだから、気をつけないといけない食べ物はない。

「小籠包、食べに行かん?」

 わたしは言った。

「ええで! 小籠包好きなん?」
「うん、最近はまってんねん」
「ワイ、あんまり食べたことないわ」
「えー、めっちゃおいしいねんで! 金ちゃん、人生損してるわ~」

 きゃらきゃらと笑いながら、高島屋のほうへ歩き出した。金ちゃんはわたしの歩幅に合わせて進んでくれる。中学校を卒業して数年経った今、こうして並んで歩くなんてびっくりだ。

「損してるって、どんくらい?」

 身長はぐんと伸びたけれど、昔と変わらない丸い目に尋ねられる。

「せやなあ、半分くらい?」
「めっちゃ損しとるやん、それ」
「せやで」
「ほな今日は、なくしとった人生の半分をゲットできるっちゅーことやな!」

 金ちゃんはニカッと笑った。
 わたしたちは高島屋の中へ入る。ああ、眩しいな。

「金ちゃん、変わってへんくて安心した」

 久しぶりに会うから会話が成り立つかどうか心配だったのだけれど、ちっとも問題ない。

「え、けっこう変わってると思うんやけど。ほら、身長めっちゃ伸びたやろ!? ワイ、白石よりも背ぇ高いねんで!」
「あはは、せやなあ。白石先輩は――」

 ちらりと視線を下げる。

「たぶん、このへんに目があったわ」

 わたしは言い、指差した。まだこんなにもピンポイントで覚えているなんて、笑ってしまう。

「よう覚えとるやん」

 金ちゃんは少し不機嫌そうな顔をした。

「まあなあ。部長やったし」

 わたしは応える。

「ふーん。ほんなら財前は?」
「え?」
「財前も部長やったやん。財前の身長は覚えてんの?」
「財前、先輩は」

 分からへん。
 言いあぐねるわたしを見て、金ちゃんは眉をハの字にした。

「……部長やったから覚えてたんとちゃうやろ。ワイ、知っとるで」
「なにを?」

 心臓がいやな音を立てる。

がいーっつも白石ばっかり見てたこと!」

 頭の後ろで腕を組んで、金ちゃんは言った。そして、ヒョイとエスカレーターに乗る。わたしの前に立たれてしまったから、表情は見えない。

「せやから白石がちょっと羨ましかったんやで」

 金ちゃんが今、どんな顔をしているのかは分からない。そのせいか、赤い髪から覗く、燃えるような色に染まった耳がやけに目についた。わたしたちは無言で七階まで上がる。エレベーターにすればよかったかもしれない。ほんの少し後悔しながらフロアに降り立ち、目当ての店を目指す。どこの店もいっぱいだ。もしかしたら並ばないといけないかもしれない。どきどきしながら店の前につけば、思ったよりも空いていた。待っているのは、カップルと家族と老夫婦の三組だけだ。

「ここなん?」
「うん」

 漢字三文字の店名を見て、金ちゃんが首をかしげる。

「これ、なんて読むん?」
「ディンタイフォン」
「なんやケータイみたいな名前やな」

 金ちゃんは言い、続ける。

「ワイ、名前書いてくるわ」
「おおきに」

 金ちゃんが名前を書いているうちに、カップルと家族が案内されて、わたしたちと老夫婦が残った。わたしと金ちゃんはメニューを見ながら何を食べるか考える。小籠包は食べたい。前菜は蒸し鶏の葱ソースとくらげの甘酢合えかなあ。スープは酸辣湯がいい。メインは青菜の炒めニンニク風味ともう一品ほしい。最後は海老・豚肉入りチャーハンか、やっぱりスープをやめて酸辣湯麺か担々麺か、あれ、そうなるとコースのほうが安くなるかもしれない。

「なにがええ?」
「せやからの食べたいもん」
「うーん、そう言われると調子狂うなあ」

 金ちゃんは、ああしたい、こうしたいと思うままに言うタイプだった。二年間は、白石先輩とか財前先輩とかがうまく聞き入れてくれてうまくいっていた。三年目はわたしがなんとかした。金ちゃんは人好きされる感じがあったから特に困りはしなかったのだけれど、部長としての金ちゃんの顔も立てつつ、後輩から不満の声が上がらないようにフォローに回っていた。

「ワイやって白石みたいになれる」

 白石先輩みたいに人に合わせられるということだろうか。

「でも、金ちゃんは金ちゃんやからええんちゃうの?」

 白石先輩はすてきな人だった。ただ完璧に近かった分、しんどそうなこともあった。一方、金ちゃんはいい意味で我慢しない子だったから、大変なときがあっても白石先輩に似たしんどさはなかった気がする。

「なんでも白石先輩が一番ってわけちゃうやん。しょうもないことやけど、わたし、金ちゃんの名前書くんが一番好きやったで」
「ほんまに?」

 金ちゃんは目を丸くする。どことなく嬉しそうだ。

「うん、『遠山』のな、しんにょうが好きやねん。スーッて伸ばす感じ。あと『山』のバランスが取りやすい」
「なんやあ、そういうことかいな」

 ぶすっとした顔をして、金ちゃんは不安を言う。

「お待たせしましたぁ、遠山さまぁ」
「あ、はい」

 わたしは応え、立ち上がる。

「『遠山』が好きなら、遠山になったらええのに」

 小さな告白に、どぎまぎしながら。

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