クリオライト・ハーバー

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 やっぱり居た。飛び込み台にもたれ掛かるようにして座る背中を見付けて立ち止まる。水銀灯に白く照らされて、その姿はくっきりとした輪郭をもって浮かび上がって見える。冬の空気は光をよく通す。それは空気が澄んでいるからで、空気の透明度は水蒸気の量によって変わる。水蒸気が多ければ空気中に仄かな靄が立ち込めて、水蒸気が少なくて乾燥していれば空気中の透過性が高まる。特に十二月の空気は新鮮な雪の匂いがする。爽やかに冷たくて、すうーっと吸い込めば鼻の奥から喉、肺の底の順番に綺麗になっていく気がした。骨まで透き通りそうで気持ち良い。裸足になってプールに足を踏み出す。床のざらざとした感触が伝わる。
「立てる?」
 そっと近付いて訊いた。

 そのままの体勢で山崎くんは私を見上げる。
「どうした」
 それは質問に対する正しい答えでは無かったけれど、私は気付かないふりをして体育座りをする。
「山崎くんならきっとここに居ると思って確かめに来た」
「そうか」
「うん」
「またリハビリだ」
 もし私が山崎くんだったら。山崎くんに私を代入して考えてやめる。もしという言葉はむなしい。どこまでも仮定で、それを使って誰かについて本当の意味で理解することなんて出来ない。分からないなら私は私に出来ることをしよう。
「大丈夫だよ」
「なんで」
「大丈夫だって思えない?」
 言い、続ける。冬の空気は音もよく通す。この気持ちが届けと念じる。
「絶対に大丈夫。山崎くんが大丈夫だと思えなくても、私が山崎くんの分まで大丈夫って信じる。山崎くんは何度でもちゃんと泳げるようになるよ」
 隣から深いため息の音が聞こえた。
はすごいな。同情なんかじゃなくて本気でそう思ってんだろ。……優し過ぎて惨めになる」
「私は」
 一度深呼吸をする。天井を見上げて目を閉じた。人工の光が目蓋の底まで降り注ぐ。ここはこんなにも明るいのに。目を開けて視線を水面に移す。水の中の世界は近くて遠い。
「悪い。感謝はしてるんだ。ありがとな」
 言うと山崎くんは上を向いて目を細めた。照明を眩しがっているようにも、泣きたいのに泣けないようにも見えた。
「ねえ、これから海を見に行こうよ」
「はあ? もう夕方だぞ。それに寒いだろ。時間だってかかる」
 呆れ顔に笑いかける。
「今が人生で一番早い時だよ」
 手を差し出す。
「……行くか」
 観念したような笑みとともに大きな手が重ねられる。
 どちらからということもなく立ち上がった。

**

「本当に来ちまった」
 山崎くんは驚いている。
 電車の窓の外には海が広がっていて夜色の波が揺れている。東京の夜はほの白い。町の明かりは騒々しくて、自動車のヘッドライトがとめどなく流れていく。
 いつか見ていたドラマに出てきた駅名のアナウンスはいつまでも奇妙に現実感がなくて、ふとした時々に私は本当は京都に居て眠ったままなのかもしれないと思わされる。
 電車が緩やかにスピードを落として止まった。扉が開くと刺すような冷気がぶわりと押し寄せる。顔がキュッと冷たくなる。思わずマフラーに口元をうずめた。
「寒い!」
「だから言っただろ」
 話しながらホームに降り立つ。
「寒いほうが好きだから良いの」
は変わってるな。俺は暖かいほうが良い。何が良いんだ」
 山崎くんはアウターのポケットに手を入れて口をへの字に曲げている。
「こういう肺まで凍りそうな空気ってクリアで、何もかも透明になれそうな気がする。風が吹くと剥き出しの荒っぽい感じがして」
 喋る度に白い息がぽんぽん浮かんでは溶けていく。両腕を真っ直ぐ前に伸ばしてみる。水をかき分ける動きをして頷く。
「プールの中と似てる」
 言ってから気付く。私は、水泳、ちゃんと好きだった。足取りが軽くなる。心の中でテイクユアマークスと呟いた。泳ぐように歩く。改札を抜ける。
「は」
 振り向けば、山崎くんは薄く口を開けて目を見開いている。それはまるで幽霊でも見たような顔付きだった。
「どうしたの」
「いや。……いや、はは」
 からかうように口角を上げる。
「どいつもこいつもポエムか」
 メルヘン病。私はよくそう言った幼なじみのじとっとした目を思い出す。
「海水は八十五パーセントが酸素で出来てるんだよ。あながち全部が突拍子もないフィクションっていうわけじゃない」
「そう膨れるな」
 ずっと前から友だちだったような気安さであやすように頭を撫でられる。顔が熱くなった。ごまかしたくて空を見上げる。
「それに寒いと星がはっきり見える。ほら、オリオン座」
 言いながら、仲良く並んだ三つ星から下に台形を描いて縦長の五角形で蓋をする。
「あれか」
 山崎くんが指をさす。
「うん」
「オーストラリアからも見えてるか」
「うん。日本は北半球でオーストラリアは南半球だから上下反転して見えるんだって」
「季節だけじゃなくて星座も反対なんだな」
 懐かしむような横顔に私は首をかしげる。視線に気付いて山崎くんはぽつりぽつりと教えてくれた。オーストラリアに水泳留学をしたリンくんのこと。リンくんが一緒に泳ぎたがったナナセくんのこと。リレーのこと。夢。
 …………………………。
「必ず勝とう」
 とだけ私は自然と口にしていた。誰にとも何にとも目的語は明確にしないで。
「おう」
「約束」
 小指を掲げた。
「勝たなきゃな」
 するりと長い小指を絡められる。
 たとえいつか諦めそうになってしまいそうな未来が来たとしても、どうかこの一瞬の記憶が少しでも夢に繋ぎ止めてくれれば良い。

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