かなわないと知っているから

Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 誰にも迷惑をかけずに生きる。というのはとても難しい。そして、できたところで誉めてはもらえない不憫な努力だ。出されたご飯を残さずきれいに食べること、眠いと文句を言いつつも起きて時間通りに学校へ行くこと、授業中ノートをきちんと取ること……どれも本当は面倒くさいのを我慢しながらやっているのに、そうして当たり前なんだっていう顔をみんながする。うちはどうにも納得がいかなくて、目の前でにこにこと胡散臭い笑顔を浮かべている人をよく心の中でボッコボコに殴る。しれっとした顔で、考えられる限りの罵詈雑言を浴びせている。実際に声を出して思いきり叫びたくなる瞬間も、ときどきある。嘘つき! そんなふうに喚き散らしてすっきりできればええのになあ。

 ピーポーピーポー。救急車のサイレンが聞こえた。くるくる回る赤いランプは道を開けてくださいっていうお願いというよりも、命が危険だと叫んでいるみたいだ。だから、中の人は死んじゃうんかなっていつも考えてしまう。

「謙也ー、お迎えが来たでー」

 うちは言った。謙也はお茶を飲みにコートから出て来たところだった。隣には白石がいる。

「お迎えちゃうわ!」

 謙也がツッコむ。お決まりの流れだ。でも侑士くんによると関東の人は分からないらしい。そういえばこんなことがあった。謙也が、侑士くんとの電話で関東だと吉本新喜劇はチャンネル登録をしないと見られないって知ったんだとユウジに教えた。ユウジは、よっぽどショックだったのと、吉本って点いてたら見る感じだからわざわざお金を払うって損な気がするねとうちが言ったのとで、一日中うるさかった。

 ユウジは今日、オモシロ探索委員会があるから遅れてくるらしい。

 手元に視線を戻して、お守りをちまちまと縫う。マネージャーというのは案外暇なのだ。漫画に書いてあるようなことはしない。タオルの手渡しは非効率的だし、ドリンクだってうちは公立だから贅沢に使える部費なんてなく、せいぜい麦茶のパックをコップに放り込んで、バーテンダーよろしくシャカシャカと振って色を出すというなんとも地道な作業で作っているし、できたらやっぱり手渡しなんてせず、ジャグに入れてセルフサービスで飲んでもらうし、洗濯機は合宿のときくらいしか回さない。

「今年は三角柱なんや」

 白石が言った。

「せやねん。今までで一番のクオリティーやろ」

 うちはにっこりと笑った。今年のお守りはパステルカラーのフェルトを使っているからかわいい雰囲気だ。まず生地を正三角形に切ったものを四枚用意する。それぞれに、テニスボールのアップリケ、ユニフォームのアップリケ、選手の名前の刺繍、学校名である四天宝寺の刺繍をほどこし、縫い合わせる。それから、紐を付けて綿を詰めて完成だ。

「あ、白石、カレーライスっちゅー遊びあるやん。あれな、チョキがチョー辛で、グーがグー辛で、パーがパー辛やん。うち、チョー辛は分かんねん。超辛いってことやろ?」
「せやな」
「グー辛もぐうの音も出えへんほど辛いんやなって考えたら納得できんねん。でも、パー辛ってなんなん?」

 うちは素朴な疑問を口にした。

「頭パーになるくらい辛いんちゃう?」

 謙也が言った。

「頭パーになるってどういうこと?」
「そら、あれやろ。意識がパーッと弾け飛ぶっちゅーこっちゃ」
「ごっつい辛さやな!」

 顔をくしゃっとさせて、うちはアホみたいに表情を作った。本当はおもしろいなんてこれっぽっちも思っていないのに、営業スマイルならぬ営業リアクションをついしてしまう。自分のこういうところが大嫌いだ。もしかすると、学校にいるときが一番淋しいかもしれない。ひとりぼっちの孤独よりも、集団の中の孤独のほうがひどいって聞いたことがある。それから、多分、うちは人が怖いんだと思う。

 人と顔を合わせて、今日は暑いねとか、風邪なんとか、言いたくもない挨拶をいい加減にしていると、なんだか自分ほどの嘘つきが世界中にいないような苦しい気持ちになる。それから、相手の人もむやみにうちを警戒して、当たらずさわらずのお世辞や、もったいぶった嘘の感想なんかを話しているのかなって思ってしまう。耳をかたむけながら、相手の人のけちな用心深さが悲しく、ますます世の中がいやでいやでたまらなくなる。人は、お互い、こわばった挨拶をして、用心して、お互いに疲れて、一生を送るもんなんやろうか。うちは、人に会うのが嫌や。せやから、よっぽどのことでもない限り友だちに遊ぼうって言わへんし、誘われても行かへん。

「なあ、大会の前にみんなで焼肉行こうや」

 目を輝かせて、謙也が提案した。うちは心の中で思いきり顔をしかめる。でも表に出すのは苦笑いだ。

「う~ん、行けたら行くわ」
、絶対こうへんやろ」

 白石が呆れたように言った。関西人特有の、行けたら行く、イコール、来ないという公式はうちにもすっかり適応してしまっている。だって、疲れるんやもん。なんでお金出してへろへろにならなあかんの。みんなのことは好きや。それは本当だけれど、しんどいものはしんどい。たこ焼きを食べてみなければその味が分からないように、やってみなくちゃ分からないこともあると思う。でも、だいたいの場合、嫌なことを我慢してやっても嫌な思い出が残るだけだ。だから行かない。それに咎められるほど悪いことだと思っていない。

「今年こそは連れていくで。最後なんやから」

 謙也が言った。白石も同意の表情を浮かべる。そんな二人を見て、残念な気持ちになった。最後って、つまり、わたしたちは引退したら、外でご飯を食べたり、遊んだりしようと誘い合わなくなることを指している。誘ってもらってもいつも断ってばかりだけれど、みんなと会えなくなるのは、淋しい。

「謙也のバカ」
「えっ」

 謙也の目が驚きの色に染まる。それからすぐ眉が下げれられた。謙也から聞いたのだけれど、侑士くんによると、人をいじるとき、関東ではアホと言ったら傷付いて、バカと言ったら傷付かないらしい。逆に、関西ではアホと言っても傷付かず、バカと言ったら傷付くんだそうだ。

、バカはあかんやろ……」
「バカバカバカ」

 傷付いとき。



 白石から呆れたような声があがる。

 男子テニス部に入ったのは白石がきっかけだった。まだ入学したばかりの頃、スポーツにあまり興味のなかったうちは、運動部と文化部の両方に入らなければならない校則に悩んでいた。そして、朝、馬の被り物をかぶってどうしようかなあと考えながら掴みの門こと校門をくぐっていたとき、白石にたまたま声をかけられたのだった。その日、白石はランドセルを背負って登校していた。六年間使い込まれたのであろうランドセルには、中学校で使わないソプラノリコーダーまでぶら下げられていた。今よりもよっぽどおもしろくなかった白石はネタがなかなか思い付かず困っていたらしい。どこで馬の被り物を買ったのか訊いてきた。うちはドン・キホーテで買ったと教えた。サラブレッドマスクという商品名だけれど、どのあたりがサラブレッドに見えるんだろうかと小さなツッコミを添えて。白石は笑った。それから、馬の被り物にセーラー服のわたしとランドセルに学ランの白石というシュールな二人組のうちらは教室に着くまで一緒に歩いた。初対面だから苦手な社交辞令の会話が必要だった。馬の被り物に隠れているうちの顔は、思いっきりしかめっ面だった。でも、白石はやっぱり笑っていた。うちがどの運動部に入るかまだ決めていないと言うと、男子テニス部をすすめられた。そして、なんとなく、入部した。変な入り方だ。

「ほら、お茶飲んだんやからコートに帰る!」

 うちは明るい声で言った。謙也が納得のいかない顔で念を押す。

も焼き肉来るんやで! 絶対やからな!」
「行けたら行くわ」
「絶対や! 白石、部長命令出したれ」
「せやなあ……。でも、今はとにかく練習や」

 白石が謙也を引っ張っていく。わたしは安堵のため息をついた。透明な手でぎゅっと握られて小さくなっていた心臓が、圧迫から解放され、ふわっと元の大きさに戻ったような感じがする。

 背を向けて、白石が手を振る。

と一緒ならもっと楽しいんやろうなって俺も思うけど、命令やなくての意思で来てもらえるのが一番や」

 うちは目を細めた。眩しい。白石は今きっと笑顔だ。洗い立てのレモンが、青空の下、水滴を散らしながら転がっていく。そういう明るさで笑っている。

 手元に視線を戻してまた裁縫をしていると、二人と入れ替わりにやって来た光がうちの隣に座った。

「光ー、しんどいって関西弁やねんて」

 なんとはなしに言ってみる。

「そうなんすか」
「おん」
「ほな、関東の人はなんて言うんすか?」
「うーん……体調が悪いとか、気分が悪いとかかな?」
「それは重いんとちゃいます?」
「やんなあ。しんどいはしんどいやな」

 突き抜けるような青い空を見上げて、わたしは頷いた。

先輩、しんどいんっすか」

 光が呟いた。息が詰まる。見えない手で心臓がぎゅっとつかまれたみたいな苦しさがまた訪れる。うちはコートの白石をとっさに目で探した。見つける前にお守りへ視線を戻して、笑う。多分、情けない顔になっている。

「こっち見てください」

 光の声には斬り込んでくるような鋭さがあった。そして、怒りと懇願が含まれていた。複雑な響きが気になって、うちは顔を上げる。光を見たとたん、真っ白なペンキが頭にぶちまけられた。物欲しそうな目につかまって、動けない。

「ひかるも、しんどいん?」

 わたしは消えそうな声で言った。光は眉を寄せ、コートにふいと顔を向ける。わたしも同じように視線を動かすと白石が見えた。白石はサーブを打っている。

「……先輩見てると、ホンマしんどいわ」

 不機嫌そうに言って、光は立ち上がった。

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