Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 夏の川は眩しかった。金や銀にちらちらと光っていた。
 橋の上の黒猫はそれにぎゅっと目を細めて顔を洗い、日影を求めて駆け出した。蝉の輪唱が響き渡る中、行商人や子どもの足の間を軽やかに抜けていく。青々とした葉を立派に茂らせている桜の木の下へ滑り込んだとき、猫の前にぼたりと一匹の蝉が落ちた。猫は驚き後ろへぎゃっと飛び退くも、それが何か分かるや否やかぶりつく。蝉の羽が折れた。バリバリバリッと、枯れ葉の山を踏み潰したかのような乾いた音がする。蝉は悲鳴にも似た叫びをあげた。猫はそれすら噛み砕く。蝉は息も絶え絶えに低く唸るが、あっという間に真二つに食いちぎられてしまった。猫は土の上に寝そべり、両手で死骸の半分を押さえながらもう半分を咀嚼した。そして、ふらりと立ち上がるとまた駆け出した。それきり猫は戻らなかった。木漏れ日が、蝉の死骸、下半分を照らすばかりだった。

 は今日もさつきで忙しく働いていた。元気よく客に挨拶をし、注文をとり、厨の者へ内容を伝え、また客に笑顔を振りまき、また注文を受け、また厨の者と話す、この繰り返しをしていた。仕事を始めて四年めともなると流れはすっかり体に染み付いており、足を止めることなく風のように働くことも、店の中の瞬間をとらえることもできた。例えば、綺麗な山形に盛り付けられたあんみつの寒天が、匙によってその美しさを崩される様子や、わらじを直すふりをしてこっそりと脱ぎ、足を休める客の姿であった。の目には残像が見えるくらい、すべてがゆっくりと動いているように映る。
 ビイドロの風鈴は、空の一番高いところまで昇った日に照らされていた。風鈴の舌がビイドロでできた頭の縁を打つ。ちりんと金属音がする。
 紅色ののれんの下から先生が現れる。先生は背が小さいため、のれんを手で掻き分けずに店へ入ることができる。今日は若い二本差しを連れていた。男の年は二十一から二十四までに見える。彼はのれんに右手を差し込み、斜め上に布を避けた。
 はすぐさま二人に気付き、口角を上げる。
「あら先生、いらっしゃいませ」
 若い男は、先生のことをなんの迷いもなく先生と呼んだに目を見開いた。
「おう」
 先生が彼女に応える。
「いつものですか?」
「いいや、この頃はあちィからな、冷やし甘酒を二つ頼む」
「かしこまりました。こちらへどうぞ。ちょうど今、一番涼しい席が空いたところです」
 はにこにこと彼らを案内する。
「先生がどなたかをお連れになって見えるのは珍しいですね」
 先生は「そうか?」と言いかけるが、ぐっと言葉を飲み込む。
 を含め店の者は誰も知らないが、先生は勝海舟といい、幕臣であった。彼は付き人がいて当たり前と思えるような暮らしをしている。店の者に名前を明かさなかったのは、忍や間者に対する予防線だった。今までさつきに付き人と来なかったのは、気晴らしに食べる甘味くらい、身分や立場にとらわれず、ただの客として自由に選びたいからだった。しかしこの新しい付き人はなかなか優秀で気も回る。一緒にいても息が詰まらない。それに近頃は何やらきな臭い。ひとりでいるのも不都合だ。そういうわけで、先生は彼を連れてきたのだった。
 二人が席につき、は厨へ足を向ける。先生は付き人に囁いた。
「……なかなか美人だろう、青谷」
 付き人は青谷といった。「ええ」と言って青谷は頷く。
「しかし驚きました。彼女は先生のことを知っているんですね」
「さつきはなんにも知らねェよ。あいつが分かってんのは俺の顔と、頼む菓子の種類くらいだ」
 先生は苦笑した。
「先生っつうのはあだ名だな。俺も最初はぎょっとしたが、なんでも俺ァ先生らしいんだと」
「そうでしたか」
 難しい顔をして、青谷は膝の上に視線を落とした。
「青谷」
 先生は彼の目を自分のほうへ向かせる。そして首を横に振った。言外に、あいつァ、くノ一でも間諜でもねェよと伝えているのだ。青谷はそれを理解して、静かに一礼した。
「まあ、どうなさったんですか」
 冷やし甘酒を持ってきたが目を丸くしながら言い、続ける。
「先生、本当に先生みたいだわ」
 先生と青谷は顔を合わせ、声を圧し殺して笑った。みたいもなにも先生は、幕臣、勝海舟先生である。
「どうして笑うんですか。わたしだけ仲間外れですか」
 は芝居がかった様子で、さめざめと泣くふりをした。
「おう、おう、悪かったな」
 笑いながら先生は応えた。青谷はどのような顔をしたらいいか分からず、眉をハの字に下げている。
「それでは、またそちらの方をお連れになってください」
 は言った。男二人は動きをぴたりと止める。
「なんでェさつき、青谷に惚れたか」
 先生はおもしろそうに訊く。は青谷へ半身を向ける。
「青谷さんというのですか」
「ええ、はい」
「わたしは」
 彼女はなんと言おうか迷った。はさつきという名ではない。結局、差し障りのない紹介をすることにした。
「わたしはさつきと呼ばれています」
 彼女は目を伏せた。
「そのあだ名もすっかり板についたな」
「おかげさまで」
 そう言って、は茶目っ気たっぷりに微笑む。
「先生が青谷さんを連れてきてくだされば、饅頭は一個ではなく二個、冷やし甘酒は一杯ではなく二杯と、今までの二倍売れます」
「つまんねェなァ」
「つまらなくとも大事なことです。わたしは茶屋さつきの看板娘ですから」
 と先生は声を上げて笑った。青谷は、困ったように笑っていた。

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