秋の香りは鮮やかだった。橙色の花の、甘く濃い匂いが空気中に溢れていた。
その花の色をした、目には見えないはずの波線が視界に浮かび上がってくるほどだった。蛇行する線を辿っていくと武家屋敷の立ち並ぶ通りへ出る。そのまま線を頼りに歩けば匂いはどんどん強まってゆき、やがて、むせ返るような濃さのところまでたどり着く。そこは空き地だった。四尺ほどの金木犀が一本ばかり立っている。金木犀は匂いの元である小さな花を、こぼれんばかりに咲かせていた。
隣の屋敷の屋根で昼寝をしていた黒猫が目を覚ます。くあーっと大きなあくびをし、ひらりと瓦から飛び降りた。金木犀の前を横切り、立ち止まって青天を仰ぐ。橙色の花々と空の色は相対し、お互いをより美しく見せていた。猫は一声「にゃあ」と鳴き、他の屋根へと跳躍した。
さつきは珍しく閑散としていた。見慣れない顔が三つと、たまに来る二人の客だけであった。あまりにも暇なのでは早上がりとなった。
はさつきに住み込みで働いている。自分に与えられた部屋へ帰ると畳に寝転んだ。仰向けになり右手の甲を眉間に乗せる。まぶたを閉じてため息をひとつ吐いた。はとても疲れていた。今日は忙しくなかったのに、体が泥のように重かった。
こういうときはいつもと違う化粧をするに限る。彼女はのろのろと起き上がり、文机まで歩いた。机の上には竹で編んだ小物入れがある。蓋を開けると白粉、紅、眉墨がちんまりと収まっていた。は迷わず紅を取る。そしてまぶたの端に細く入れた。目元がぱっと明るくなる。それだけでしゃんとした。は、よし、と心の中で拳を握り、出かけることにした。
背筋を真っ直ぐに伸ばして歩く彼女はその顔立ちも相まってとても美しく、疲労がうまい具合に表情に憂いを落として儚げな雰囲気をまとわせていた。道行く人は次々に彼女を振り返る。
が小間物屋を見ていると、彼女を見て足を止めた男があった。饅頭の二つ入った包みを持っている。彼は彼女に声をかけようかかけまいか、しばし逡巡した。彼はなるべく早く帰りたいし疲れている。しかし結局、彼女へ歩み寄った。
「さつきさん」
彼は言った。
彼女は振り向いた。
「青谷さん」
は目を丸くして彼の名前を口にした。
「今日は非番ですか」
青谷は尋ねた。
「いいえ、お客さんが少なかったので早めに上がったんです」
彼女は眉をハの字にして笑う。
「ああ、確かにそうでしたね」
青谷は饅頭の袋に視線をやる。彼と同じようにして、は言った。
「わたしが上がってから来てくださったんですね」
「ええ」
「青谷さんがいらっしゃると分かっていたらお店にいたのに」
はいたずらっぽく笑った。青谷は苦笑する。そのとき彼女は、この人は困った顔ばかりするなあと思った。両腕を伸ばして、二つの手のひらで彼の顔をやわらかく挟む。青谷は何事かとぎょっとした。しかしは手を離さず、親指できゅっと口角を上げる
「なにがひたいのれふか」
何がしたいのですか。眉間にしわを寄せて、青谷は言った。
「さあ。ただその顔が気に入らなかったんです」
青谷はの手を頬から剥がし、口を開く。しかし彼女の声に遮られて何も言えなかった。
「もっとばかみたいに笑っていればいいのに」
彼女は青谷の眉間に手を伸ばし、人差し指と中指を柳眉の間に置いた。指を横に動かして皮膚を伸ばす。
「今日はとりわけお疲れのように見えます。何を偉そうにと思われるかもしれませんが……。大丈夫です、青谷さんは頑張っています。少しくらい手を抜いたってバチなんか当たりませんから、もっと楽に生きてみてはいかがですか」
青谷は、はっとした。先生に付いて仕事をするのは楽しいが、この頃ずっと疲れが溜まっていた。
は口を開く。
「お引き留めしてしまってすみません。お勤めご苦労さまです」
そして深く一礼し、立ち去ろうとした。しかし青谷が彼女の手首を掴む。
「さつきさんも、お疲れに見えますよ」
彼は言った。骨張っているけれども力強い、男の手が彼女の頬を包む。
「あなたももっと笑ったほうがいい」
青谷は微笑んだ。驚くほどきれいで、穏やかで、やさしく、が知っているどれよりも素晴らしい笑い方だった。
「今日は目尻に紅を差していますね。よくお似合いです。美しい人には、花のような笑みも似合うと思いますよ」
の顔が赤く染まる。体の芯からじんわり温かくなって汗まで出てくる。まるで燃えているように熱いと、も、彼女の肌に触れている青谷も思った。二人は、自分たちが何かとんでもないことをしてしまっている気がした。
「あの、手を、手を離していただけませんか」
は俯いて言った。青谷はそれに従う。秋風がほてった両頬を撫でたとき、淋しさがふっと彼女の胸をよぎる。それをごまかすように、彼女は強い口調で抗議した。
「わたしは笑っています」
青谷が困ったように笑う。
はいやだなと思った。わたしはなんてかわいくなくて、ややこしい女なんだろうと考えた。ありがとうございますとだけ言って、それこそばかみたいに笑えばいいのに、ちっともうまくできなくて腹立たしかった。