Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 冬の静寂は冷えきっていた。どこまでもしんとしていて、ありとあらゆる生き物がいなくなってしまったかのようだった。
 昨晩雪が降ったため、町は一面銀世界となっている。椿の生け垣は雪化粧をほどこされて白く発光していた。その明るさの下から赤い花びらが覗いている。花から滴り落ちる雫は、天女の涙さながらの気高さと清らかさがあった。日が昇る。ぽたり、ぽたりと椿が泣く。涙は真っ直ぐに落下し、地面を覆う雪へ染み込んだ。やがて土まで届き、来年新しい花を咲かせる糧となるだろう。 血のように赤い花びらと、つやつやした緑の葉っぱは、きっとまた雪化粧をほどこされて涕泣する。そして涙は今日のように土まで届き、また次の年新たな花を咲かせることになるだろう。
 生け垣の影から黒猫が躍り出る。朝餉の味噌汁や、魚の焼ける匂いがする。猫は鼻をひくひくとさせて一度寒さに身震いすると、匂いのほうへ歩いていく。小さな足跡が雪の上に残されてゆく。日の光でやわらかく溶けてゆく白い足の形は、きらきらと輝いていた。

 さつきは今日も繁盛していた。吐く息が白くなるほど寒いこんな日には、蒸したての温かい饅頭が飛ぶように売れる。饅頭はほかほかと湯気を立てていて、誰だって一目見れば食べたいと思うし、一個両手に収めれば指先から伝わる温かさに破顔する。ふうーっふうーっと息を吹きかけて一口食べるだけで、えもいわれぬ喜びを感じられるのが冬の饅頭の醍醐味だ。
 はくるくると働いていた。足を止めることはない。彼女は女が二人座っている席を通り過ぎようとした。
「その簪きれいねえ。どうしたの?」
 客の一人が言った。
「あ、こ、これはね、慎太郎さまがくださったの」
 もう一人が顔を赤く染めながら応える。
「まあ! 慎太郎さまが! すごいじゃない!」
 女は目を輝かせ、手を叩いた。かんざしを差している女ははにかんだ。男が女にかんざしを贈るのは、きれいな髪を乱してみたいという意味がある。
 はその様子をちらりと、しかししっかりと見ていた。かんざしの女は慎太郎という名前を、とても大事なもののように口にしていた。
「おあいそ」
 二人の女の隣に座っている男の客がぶっきらぼうに言った。
「はい」と声を返しては笑顔で応対する。「ありがとうございました」と声を張り上げ、深く一礼したとき、紅色ののれんの向こうから青谷が現れた。
「青谷さん。いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「いつものですか?」
「はい、よろしくお願いします」
 は厨へ向かった。中の者に「饅頭二つ、お持ち帰りで!」と伝えると「今新しいのを入れたところだ!」と返事をされた。「分かりました!」と答えて彼女はきびすを返す。青谷は表に戻ってきた彼女を見つけ、声をかけた。
「今日は寒いからいつも以上に饅頭がよく売れるでしょう」
「ええ、本当に。ありがたいことです。今新しい分を蒸していますから、少しお待ちになってください」
「はい」
 は他の客のところへ行こうとした。しかし青谷が口を開く。
「さつきさん」
「はい?」
「これを」
 そう言って、青谷は袂から片手に治まるくらいの小さな包みを取り出した。
「なんですか?」
「あとで開けてみてください」
 青谷はにっこり笑った。
「わたしに?」
「はい、あなたに」
「ありがとうございます。でも、お客さまから頂き物なんていけません」
 は首を横に振った。
「……饅頭を、お持ちします」
 彼女は厨へ戻った。
 悔しかった。本当は喉から手が出るくらい、あの包みがほしかった。青谷が自分のために贈り物をしてくれようとしたのだと思うと、顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。嬉しかった。それなのに、茶屋の看板娘さつきが邪魔をした。今までも他の男の客に贈り物をされたことはあった。しかしすべて今のように断ってきた。青谷のものだけ受けとるのは道理にかなわない。
 饅頭は蒸し上がっていた。白い湯気を幸せそうに、くゆらせている。
 は慣れた手つきで二つ包んだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
 青谷は勘定を済ませる。
「そうだ、実は外に先生がいらっしゃるんです。少しお会いになりませんか」
 青谷は言った。
「え? ええ、そうですね。ご挨拶だけしようかしら」
 二人は肩を並べてのれんをくぐる。
 店の外に、あの背の低い二本差しはいなかった。青谷は嘘を吐いたのだ。
「あの、先生は」
「すみません、いません。店の中ではこれを受け取っていただけないと思って」
 青谷はまた袂から小包を出し、今度はの手にしっかりと握らせた。
「さつきさんに買ったものですから、さつきさんにもらってほしいんです」
 彼は真剣だった。は気がつけば頷いていた。青谷はほっと胸を撫で下ろす。はのれんにちらりと視線をやり、包みを開けた。
「べに」
 彼女は唇も、まつげも、全身を震わせた。包みの中には紅が入っていた。
「青谷さん」
 はそれ以上、何も言えなかった。
「次に来たとき、どうかその紅を引いて名を呼んでください」
 そう言って、青谷は穏やかに微笑み、の耳元に顔を寄せた。ひとりにしか聞こえないほどひっそりとした声で、自分の名を教える。は小さく復唱した。今なら、かんざしの女の気持ちがよく分かる。彼の名は特別だった。
「それから、あなたの本当の名も教えていただきたい」
 彼の熱い吐息がの首にかかる。はくすぐったさと羞恥に身をよじった。この人になら名でもなんでもあげていいとさえ思った。白い息がゆらゆらと天に上ってゆく。
 彼から一歩、二歩下がっては深く深く腰を折る。
「またのお越しを、お待ちしています」
 彼女は耳まで真っ赤だった。
 男が女に紅を贈るのには、唇を吸うてみたいという意味がある。

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