Written by Chisato. No reproduction or republication without written permission.

 春の空は美しかった。ただただ青く澄みきり、どこまでも深かった。
 ぶわりと風が膨らんで、目には見えない波を立てる。桜の花びらが一斉に舞い、舟のように空を滑った。そしてゆらゆらと落ちてゆき、土の上へ辿り着くかと思われたが、路地裏を歩いていた黒猫の背へ降り立った。
 猫は小さな足を止めて身を震わせ、花びらを払うと再び歩き出す。また宙に投げ出された花びらは、同じようにゆらりと落ち、今度こそ土の上へと横たわる。猫がそれを振り返ることはなかった。

 茶屋さつきは一日で一番忙しい時間、昼下がりを迎えていた。店の表は人と茶の熱気で、裏は名物の饅頭の入った蒸籠から立ち上る湯気で暑く、客の机と厨とをせわしなく行き来する店の者の帯の下には汗がじんわりと滲んでいる。それでもはにっこりと笑い「お待たせいたしました」「ご注文をお伺いいたします」「ありがとうございました」と明るい声を出すのだった。
 を見て、常連客の一人である植木屋の親父は向かい合わせに座る仕事仲間に話しかけた。
「さつきちゃんは今日もよく働くねえ。うちのにも見習わせてやりたいくらいだよ」
「はは、全くだ。さつきちゃんが男なら是非とも雇いたいもんだ」
 男二人は饅頭をぱくつく。
 さつきの客や店の者はみんなのことをさつきと呼ぶ。
 は今年、十五になる女だ。さつきへ来たのは十一の頃で、それからずっと仕事に精を出している。その器量のよさには目を見張るものがあり、いつからか看板娘として存在を確立していた。
 は初めてさつきと呼ばれた日を忘れない。彼女をさつきと一番に呼んだのは、彼女よりも背のずっと低い二本差しだった。顔なじみの客の一人である男は常に悠然としており、きっと位の高い人物だと店の中で噂されていた。ある冬の夕暮れ、客足も遠退いてがらんとしたさつきに彼はやって来た。そのとき表に店の者はひとりしかいなかった。彼は紅色ののれんをくぐり、と目を合わせて言った。「よう、さつき。饅頭をひとつ頼む」と。それが不自然なくらい自然だったので、は違和感を覚えることもなく「かしこまりました。いつも通りお持ち帰りでよろしいですか?」と返事をした。男は「おう」と応えて饅頭の用意ができるのを待ち、が包みを持ってくると代金を支払って「またな、さつき」と別れの挨拶をし、店から出ていこうとした。は「またお待ちしております、先生」と言って頭を下げた。彼女が男を先生と呼ぶのは初めてだったが、店の者の噂話を聞きながらずっと、彼には先生という呼び名がしっくり合うと彼女は思っていた。なんの迷いもなく自分を先生と呼んだに男は目を見張ったが、背を向けられている彼女にそれを知る術はなかった。店仕舞いのあと、はさつきと呼ばれたことを店の主人に話した。主人はその話を気に入り、彼女をさつきと呼ぶようになった。それから店の他の者も先生以外の客もをさつきと呼んでいる。
 と呼ぶ者は、今や一体、何人数えられるだろうか。

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