傷ごと愛せよ午後八時

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「もう少しだけ待つよ。八時半になっても帰ってこなかったら食べる」
 わたしは言った。
「……そう? 退院したてなんだから無理はしないのよ」
「うん」
 チッチッチッチ。秒針の音が耳につく。
 リョーマが帰ってきたら、試合勝ったって聞いたよ、おめでとう、と言って一緒にご飯を食べよう。そのあとリョーマはきっとお風呂に入るから上がってくるのを待って、宿題をみてあげよう。もし船をこぎだしたら両手でぎゅっと頬をはさもう。だめだよ、起きてやるの、なんて言いながら問題を解かせて、それですっかり、いつも通りだ。わたしはもう大丈夫。あ、でも一番に言いたいことは――。
 玄関の鍵が開く音がする。
 帰ってきた!
 わたしは椅子から立ち上がる。ドタドタとリョーマの足音がする。
 ここは家だ。わたしたちの家だ。病院じゃない。走ったっていい。家族しかいない。人嫌いでないとはいえ、やっぱり他人とばかりいるのは疲れる。ふっと幸村くんの存在が、頭をよぎる。幸村くん。
 きらめく水面みたいにきれいな笑顔を振り切るように足を進める。今のわたしは、普段と同じ越前だ。
「アネキ!」
 廊下を小走りで駆けてきたリョーマが、病院では出せないような声量でわたしを呼んだ。
「リョーマ……!? その目どうしたの!」
 いつもの学ランに身を包んだ弟は、いつもはつけていない眼帯をしている。そしてことも無げに言い放った。
「試合中に切った。でも勝ったよ」
「えっ、じゃあ怪我したまま試合したの?」
 わたしは訊く。心がざわざわしている。
「まーね、でも勝ったよ。俺、勝ったよ」
 リョーマは応えた。
「おめでとう」
 わたしは笑った。正直なところ、怪我が気になって笑顔でいるような気分ではない。でもこの弟は誉めてほしいのだと思う。昔からそういうところがある子だ。
「うん」
 ほら、やっぱり。嬉しそうにはにかんでいる。
「でも怪我は大丈夫だったの? さすがに目は棄権になりそうだけれど」
「………………余裕だった」
「その間はなに」
「余裕だった!」
 リョーマは口調を強めた。余裕だったっていうのは嘘に違いない。わたしは両腕を伸ばして弟をぎゅっと抱きしめて言う。
「頑張ったね。でもあんまり心配させないでほしいな」
「余裕だったって言ってんじゃん」
 耳元で、まだ声変わりのしていないやや高めの声がする。
「そうだけれど」
 わたしはリョーマから離れた。今度はリョーマが口を開く。
「負けんのやだし、何があっても勝つってアネキに言ったから、勝った」
 ホテル雫石で昨日した会話がよみがえる。
 ヒューウ、とお父さんの口笛が聞こえた。
「お前はほんっとに姉ちゃんっ子だな」
「別に。……あと、はい」
 と言って、リョーマに小さな紙袋を差し出される。
「なに?」
「寿司」
 なるほど、リョーマの教えてくれた通り竹の葉に少し小さめのお寿司がつつまれていた。
「先輩の家が寿司屋で、アネキが今日退院するって話したら握ってくれた。アネキ好きでしょ」
 ああ、この弟は。
「ありがとう、リョーマ」
 と言葉が出てくるのと同時にぎゅうっとリョーマを抱きしめた。嬉しくってしかたがない。
「ごめんね、わたしなんにも用意してないの」
 せっかく決勝戦に勝ったのに。
「帰り道でファンタいっぱい買ってくればよかった」
「……いいよ、あったほうがいいけどアネキはちゃんと帰ってきたし」
 視界が歪んでうまく見えないけれど、きっと今リョーマはぶっきらぼうで優しい顔をしている。姉だから分かる。鼻の奥がつんとして、目の底が熱い。
「さっき玄関でアネキの靴見て、あ、帰ってきてるんだって嬉しくなってさ」
 こんな、喜びに溺れてしまいそうな日があっていいのだろうか。
「おかえり」
 リョーマは言った。わたしは涙でぐしゃぐしゃの顔をさらにくしゃっとさせて返事をする。
「ただいま!」
 この瞬間、日常が完成した。わたしはもう大丈夫だ。
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