ハイドランジア・デイ

This Fanfiction Was Written by Chisato. Please Don't Reproduce or Republish without Written Permission.


「ああーっ!」
 六月の朝、わたしはリョーマの悲鳴で目を覚ました。鬱陶しくなった前髪を手櫛で整えて時計をみると、二本の針は九時五十六分を指している。ミントグリーンのカーテンの隙間からこぼれてくる光が、起きなさいとでも言っているかのように眩しい。
 わたしはこの頃、朝が嫌いだ。太陽が昇ると一日が始まって学校へ行かなくてはならない。でも清純くんと会った日から登校できない日が続いている。自己嫌悪と罪悪感で潰れてしまいそうだ。
 カメレオン作戦なんてこっそり銘打って過ごしていたものの、本当は辛かった。相談できる友だちはできておらず、ちっぽけな自尊心は保健室を頼ることを許さなかった。そんなところへ足を踏み入れてしまえば、わたしがオカシイんだという証明になってしまう気がしたからだ。家族に相談して心配をかけさせるのもいやだから黙っていた。でも、ひとりで抱えきれるわけがなかった。それが清純くんといたときたまたま爆発した。
 さんざん泣いて喚いたあと、どうやって帰ったのか覚えていない。気がついたら自分の部屋のベッドで寝ていて、頭がずんと重く痛かった。
 誰かがドタバタと足音を立てて階段を上ったり下りたりしている。かなり慌てているらしい。さっきの叫び声からしてリョーマかな。今日は都大会の初日だったかもしれない。いやだな。眩しい。自分がだめだからと弟にまで嫉妬するなんて情けない。家に帰ってくるまではあんなにリョーマのテニスが見たかったのに、今じゃリョーマにはテニスがあるけれど、わたしにはなんにもないんだということを見せ付けられたらどうしようと気が気でない。
 夏が近づいているからか暑く、掛け布団を一枚床に落として寝返りを打つ。壁が目に入る。もう一度体を反転させる。熱は消えない。喉も乾いたしお腹も空いている。だめなわたしでも生きているんだなとぼんやり考えながら、たんすへ歩み寄った。引き出しからマキシ丈のワンピースを出す。これはノースリーブで涼しいし、スウェット素材だから着心地がよくて気に入っている。長袖のティーシャツとスウェットのパンツを脱いで床に落とした。新しい服にのろのろと着替えて、ため息を吐く。なにもしなくてもいい一日というのは、意外と楽じゃないし退屈で疲れる。
 リョーマが家を出た頃を見計らって一階へ下りる。台所にはお母さんがいた。あじさいを花瓶に生けている。今日は日曜日だから学校はないのだけれど、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。お母さん、こんな娘でごめんなさい。
「……おはよう」
 わたしは言った。
「おはよう」
 お母さんも言った。
、リョーマの試合行く? もし見たいなら送り迎えするわよ」
「ううん、いい。頭が痛いの」
 嘘だ。頭痛なんてしない。
「そう。大丈夫? 薬いる?」
「うん、寝てたら治ると思う」
 また嘘をついた。苦しい。こんな自分が許せない。嫌い。煩わしい。
 食器棚からコップを取る。わたしが小学生のときから使っているそれは、ミッフィーちゃんの絵がガラスにプリントされていて色が少し剥げてきている。水を注いでいるとミッフィーちゃんと目が合った。幸村くんの声を思い出す。
 ミッフィーがどうしていつも正面向きか、知ってますか?
 嬉しいときにも、悲しいときにも目をそらすことなく、読者の子どもたちと正直に対峙していたいという作者の気持ちの表れなんだそうです。
!」
「えっ? あっ」
 いつの間にかコップから水が溢れていた。
「本当に大丈夫なの?」
「え、ああ、うん。ちょっとぼーっとしてただけ」
 水浸しになったシンクを慌てて拭く。水は消えていくけれど、幸村くんの声は残ったままだ。
「……お母さん、やっぱり、リョーマの試合、見に行く」
 幸村くんと初めて会った日に暗唱した一節を心の中で呟く。

    この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
   「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」
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