知らない一面

This Fanfiction Was Written by Chisato. Please Don't Reproduce or Republish without Written Permission.


 沈黙が痛い。わたしは精市くんになんと言おうか考えあぐねていた。つい先ほどまで肺は幸福で満たされ風船のように膨らんでいたのに、今は結び目がほどけて空気がふしゅうと抜けてしまったみたいな感じだ。ぺしゃんこになったゴムが不細工に転がっている様子が頭に浮かぶ。
「ははっ」
 精市くんは乾いた笑いを漏らした。まいったなあ、と言って右肘をベッドの備え付けの机に置き、手のひらを額に当てる。
「こんなところまで付いて回るなんて」
 そして目を閉じた。
 わたしは精市くんの、触れてはいけないところに触ってしまったのだと悟った。それは精市くんの根本ともいえる部分で、心の奥深く、底の底で大事にとってあるものなんだろう。
 精市くんの顔色を伺うと白く、汗もかいているようだった。はじめて合った日にまとっていた、死のにおいというか諦めみたいなものが感じられる。それは明るいところから暗い奈落へ突き落とされたことで、あの日よりももっと重くなっているふうだった。
「……精市くん」
 わたしは恐る恐る口を開いた。
「すまない、なんでもないんだ。なんでも」
 精市くんは言った。でも、それが本心でないことは明らかだった。
 なんでもないなんてことはないよね、という言葉が口をついて出そうになったけれど飲み込む。
 精市くんは黙っている。わたしも唇をきつく結ぶ。どちらかが話せば、ギリギリの均衡で保たれている何かが崩れてしまいそうな危うさがあった。
 結局、静寂を破ったのは精市くんの携帯電話のメール受信音で、ちょっとごめん、と断って精市くんは二つ折りの本体を開いた。画面を確認するとため息をつく。
「今日はついてないな」
 精市くんは天井を仰いだ。そしてわたしに向き直る。
「悪いんだけど、もう帰ってくれないかな」
「……うん。またね」
 わたしは頷いた。
「うん、また」
 精市くんも頷いたけれど、わたしと目を合わせない。
 わたしはなるべく音を立てないようにしてホテル雫石のドアまで歩き、銀色の冷たい取っ手を引いた。廊下に体を滑り込ませる。そのとき、精市くんの声が聞こえた。
「ラケットも握れなくて何が神の子だ」
 ラケット。神の子。二つの単語がやけに耳に残った。

 勝手に詮索するのは気が引けたけれど、パソコンに手を伸ばす。
 幸村精市。立海大附属中学三年、男子硬式テニス部部長。一年からレギュラー入りを果たし功名をあげる。試合をした相手は全員、五感を奪われたようにイップスに陥ってしまう。
 そのことからついたあだ名が、神の子。
 わたしの知っている友だちはこんなふうじゃない。りんごのうさぎを上手に作ることができて、字がきれいで、一枚のプレートと雫石で喜んでくれるようなただの男子中学生だ。
 でもそれが精市くんのすべてじゃなかった。
 仲直りをしてからわたしたちの距離は縮まったような気がしていたけれど、実のところわたしは精市くんのことをちっとも知らなかったのだ。
 精市くんはきっと、テニスが好きでどうしようもなくやりたいのに、病気のせいでラケットを握れないんだと思う。そんな子にとって、笑ってテニスの話をするわたしはどれほど残酷だったんだろう。
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